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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区両国

 塩原橋
 塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年(1928)11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年(1954)3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。
 橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
 太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)にすんでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年(1892)に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
 天明元年(1781)当時、本所相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠は今も境内に残っています。
 平成4年(1992)3月 墨田区








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所在地 墨田区緑2-16-2

 寿座跡(寿劇場跡)
 本所相生町5丁目(現緑1丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治25年(1892)廃絶したが、廃絶を惜しむ声に支えられ、明治31年(1898)、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居劇場として開座した。幾多の名優の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜しくも昭和20年(1945)2月閉座、同年3月10日戦災により焼失し、その幕を閉じた。
 昭和61年(1986)3月 墨田区


所在地 墨田区千歳2-4-7

浄土宗
 東日山 正明院 西光寺
 旧両国橋が架かる半世紀以上も前の慶長11年(1606)、当時は下総国葛飾郡海辺新地と呼ばれたこの地で、土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上寺の信誉英松和尚を迎え当寺を創建しました。
 浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど、地域の教育にも貢献しましたが、震災、戦災など度重なる災害に遭遇し、貴重な資料もすべて焼失してしまいました。
 明治時代後半に第16世住職となった渡辺海旭和尚は、「大正新脩大蔵経」(全百巻)を監修発行すると共に、深川に労働共済会館を設立し、日本の近代社会事業の先駆者として知られています。
 現在の本堂は平成7年(1995)に再建されました。
 墨田区


  西光寺には『渡辺海旭上人句碑』があります。


所在地 墨田区千歳2-4-7 (西光寺)

 渡辺海旭上人句碑
壷月とは當山第十六世渡辺海旭上人(1872~1933)の号。
ドイツにて10年間の留学中、哲学博士の学位を取得、帰国後は芝学園校長社会福祉事業の実践、大蔵経の編纂、国際協力等大乗仏教の精神に則り広く社会に貢献した。
また多くの優れた門弟を養成し、当代屈指の名僧と慕われた。
北鴎は芝学園出身で慶応義塾大学當寺に3年寄食し、直接薫陶を受けた。
 西光寺第十八世明誉記











所在地 墨田区東駒形2-21-12

日蓮宗
 照法山 本久寺





 本久寺には『平岡熈墓』、『明徳小学校発祥の地碑』があります。

所在地 墨田区東駒形2-21-12 (本久寺)

 平岡熈墓
 平岡熈は、安政3年(1856)8月19日、本所二之橋(現緑1丁目5番地)の屋敷で、幕臣・平岡熈一の長男として生まれました。明治4年(1872)、森有礼に随行してアメリカに渡り、車両製造技術を習得しました。帰国後、日本の民間で初めてといわれる鉄道車両会社「平岡工場」を小石川に設立しました。明治29年(1896)には、現在の江東橋4丁目に汽車製造合資会社として、車輌工場を建設し移転しました。
 また、平岡は、アメリカから公式ルールブックとバットやボールを持ち帰り、日本の野球の普及に尽力した人物でもあります。
 さらに、吟舟と号し、長唄や清元などの邦楽に通じ、自身が「東明節」を創始して小唄を作曲するほど才能に恵まれた人物でした。
 昭和9年(1934)5月6日、77歳で没し、本久寺に葬られました。
 平成10年(1998)3月 墨田区教育委員会





所在地 墨田区東駒形2-21-12 (本久寺)

 明徳小学校発祥の地碑
開校 明治8年(1875)5月14日

明徳校友会 会長 五木田直
開校百三十周年記念事業 
実行委員会 委員長 名児耶清

平成18年(2006)5月14日
本久寺三十二世 持田日勇 代
   金井晴雲


所在地 墨田区東駒形3-15-10

臨済宗
 芭蕉山 桃青寺



 桃青寺には『長谷川馬光墓』があります。

所在地 墨田区東駒形3-15-10 (桃青寺)

 長谷川馬光墓
 長谷川馬光は、江戸時代中期の俳人です。貞享4年(1678)に生まれ、始めは藤原直行と称しました。父は、本所に屋敷があった津軽弘前藩の藩医でした。幼名を孫太郎といい、のちに親戚筋に当たる御家人・長谷川直隆の養子になりましたが、元禄7年(1694)、8差にして直隆の跡を継ぎ、享保11年(1726)には西丸小十人(御当番)に列しました。
 馬光は、俳諧を蕉門十哲の一人、其日庵・山口素堂に学び、のちに其日庵二世を襲名しました。享保10年(1725)に中川宗瑞、松本珪林、大場蓼和、佐久間柳居とともに「五色墨」の運動を起こし、6年後には冊子刊行され、俳壇が蕉風復古に大きく傾斜していく契機を作ったと評価されています。
 寛保3年(1743)頃には、寺内に芭蕉堂を作り、松尾芭蕉・山口素堂の像を安置しました。残念ながら、芭蕉堂は現存しません。著書には「湯山紀行」、「藪鶯」、「かさね笠」などがあります。馬光の門下として、「説叢大全」を著した溝口素丸等が出ています。宝暦元年(1751)、「振かへる谷の戸もなし郭公」の一句を最期に65歳で没しました。
 桃青寺は、松尾芭蕉わらじ脱ぎの伝説が残されています。また、山号は芭蕉山、寺号が芭蕉の俳号のひとつである桃青を称する点からも、松尾芭蕉ゆかりの寺であったことを偲ばせます。
 平成11年(1999)3月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区東駒形3-23-9

日蓮宗
 法華寺 子育鬼子母神



 常護大菩薩

 法華寺には『たわし石仏』があります。


所在地 墨田区東駒形3-23-9 (法華寺)

 たわし石仏
  常護菩薩顕彰の記
 日蓮大聖人は九ヶ年に亘る身延山での御生活の間ご両親をはじめ師匠道善ご坊の追善を祈るため険しき山道なきみち五十丁を登り思親大孝を盡されました。その道中霊狐現れ大聖人の前となり後となり扶けて常に護れり身延山古文書によれば大聖人自ら常護菩薩として勧請せりと傳る。
 
 明治の後期法華寺開山正法院日明上人は師匠と共に初めて身延詣に出発し甲府から徒歩で鰍沢に至りしが前夜束の豪雨で川は氾濫し川止めとなり思案にあまって身延の方向の遥拜していると何処ともなく一隻の小舟が現はれ船頭に手を引かれて乗船しようやく彼岸に渡り船賃を拂おうと振りるしるとふ思議や船も船頭の姿も消えてしまった。やがて身延山の坊に宿をとり床につき夢に
「わしは奥の院に住む常護稲荷と申す者大聖人よりのお言い付けで川止めで難渋しているそち達を迎えに参ったのだ」
と不思議なこの夢に翌朝奥之院に登り早速常護稲荷さまを訊ねると時の別当さん内野は運■が教えてくれたのが山門際の二間四面のお堂であった。亦束日明上人は常護菩薩の分躰を東京本所の大老酒井雅楽守の下屋敷跡(元法華寺境内)に勧請し今日詣者絶えない曽りて東京大空襲の時、灯火管■下は毎夜稲荷堂の扉より火を噴き空襲を事前に知らせ多くの町民を救う霊験顕著なり。
 然るにこの堂宇はいつの世にか荒廃しなに様を祀る堂が判らず特に解体取毀しされる寸前であったが佐々木は行■別当職就任の頃よりその本地が顕彰され利益を受けし篤信者現はれ中里口應別当代に復興成就するに至る。當堂には身延山第七十四世日鑑上人(明治19年寂)筆の「霊応殿」の掲定■が在る。
 昭和52年(1977)5月27日落慶式
 東京墨田区法華寺 石川日鶴 述記


 


所在地 墨田区立川1-4-13

真言宗豊山派
 萬徳山 聖光院 弥勒寺



 弥勒寺には『杉山和一墓』、『観音聖像』があります。


 


所在地 墨田区立川1-4-13 (弥勒寺)

 観音聖像
 父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄さまじい火炎と爆撃の中で、1945年(昭和20年)3月10日の朝を迎へました。町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がって居りました。
 戦争は恐ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。1時間に十萬の屍体と言ふ、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛と安らぎを求めるには、大慈悲心にすがり佛の叡智を借りること以外にありません。
 この聖像のもとに三千五百体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは生き永らへた人間の務めでもあり仕事でもありましょう。
 多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿でもありましょう。
 茲に戦災殉難の御魂をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります。
 昭和52年(1977)3月10日丗回忌
 弥勒寺五十六世 岩堀至道 敬白
 弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
 平成24年(2012)3月10日  
 株式会社ペルストーン工房 寄贈


所在地 墨田区千歳1-8-2

 江島杉山神社
 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄屋敷の跡です。
 杉山和一は慶長10年(1610)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。
 厳しい修行の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文10年(1670)、検校に任じられました。
 さらに5代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄6年(1693)6月のことでした。
 一町四方(約1万2千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
平成18年(2006)8月 墨田区教育委員会











                                 杉多稲荷神社
    

 江島杉山神社には『岩窟』、『杉山検校頌徳碑』、『八橋城秀検校の碑』、『即明庵由来碑』、『宝井其角「ほととぎす~」句碑』、『いわやみち碑』があります。


所在地 墨田区千歳1-8-2 (江島杉山神社)

 岩窟
 宇賀御魂神(倉稲魂命)は弁才天である
この功徳は五穀豊穣ばかりでなく如意宝珠の力によって希うことはことごとく叶い又福を得ることとなり、あわせて弁才天本来の能力である音楽・学問・除災までの力を授けてくださるとい、即ち人の希いとしての万能の神として認めたのであるから広く信仰さえたのは当然である。又、宇賀御魂神は、梵語のウガヤでありウガヤは白蛇を意味するから弁才天が蛇に縁があるのと共通し、弁才天を龍女とみる説からも蛇と表現される。 
又頭蛇等は■■に宇賀神を表す。
右、多紀理■売命
中、市寸嶋比売命
左、多岐都比売命
弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神と習合してからのようである。本来宇宙神ではなく水と土地の神という観念が強いから民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福学問・音楽・弁舌等に霊験あり、又土地の鎮座とし地主神として祀られている。


















所在地 墨田区千歳1-8-2 (江島杉山神社)

 杉山検校頌徳碑
大正13年(1924)東宮御成婚に際し正五位追贈の事あり此碑を営んだが、先般の戦火に損壊したので今次昭和丗四年会の創立丗週年に当り之を復旧した亦皇太子御成婚の佳歳である
 財団法人杉山検校遺徳顕彰会 
 

 功労者並向学寄附者
太田晴之 戸田恵 姥山薫 三木常正 笠井格蔵 林春吉 大野加久二
伊藤福七 國井はや 福岡政司 浜田誠一 柿沼政雄 古川真次 
白井峯吉 福原喜八郎 井上皓一■ 高木喜太郎 山本菊次 前田豊吉
肥後基一 福岡渡邊喜十郎 大竹マツ 大阪金戸島太 藤原繁松
小守良勝 大分県盲人会 日本橋鍼灸按師会 尾崎新治 以
下百戴拾餘名












所在地 墨田区千歳1-8-2 (江島杉山神社)

 即明庵由来碑
管鍼術之祖杉山和一師深く江之島弁財天を信じ将軍綱吉之侍■に■り元禄6年(1693)当所に町屋敷二千七百坪を賜ふ乃ち社地九百八拾九坪に弁財天社を経つ検校の没後直に門弟恩師之霊牌所として即明庵を社側に建つ残余の千七百余坪即ち杉山屋敷なり後惣録後役所鍼治稽古所を此処に移す明治以後十歳町と呼称す明治維新の際盲官廃止弁財天社地以外没収され神佛分離の際之を江島神社と称す明治7年(1874)7月村社に列す明治23年(1890)当流同門の徒温知舎を興し明治4年(1871)廃絶せり杉山報山検校の霊牌所即明庵を再興杉山神社と称す明治35年(1902)5月杉山報恩講を興し祭典法要を営むも関東大震災に遇ひ烏有に帰す大正15年(1926)9月18日拝敞奥殿合計八坪五合の杉山神社再建す昭和5年(1930)9月26日許可財団法人杉山検校遺徳顕彰会を設立杉山報恩講の事業の継承をす昭和20年(1945)戦禍の為盡く灰燼に帰するに依は関係者と謀り杉山神社奉祀の検校の霊牌を本社に合祀昭和27年(1952 )9月江島杉山神社と改称し再興なる昭和34年(1959)財団設立30周年に当り■勒寺乃在墓碑の移築新修並に当所検校の頌徳碑の復旧完成す昭和39年(1964)11月安永5年(1776)建設の岩屋破損に就き関係者と協力之が修復を終る此に於て一應復旧するも唯即明庵(杉山神社)跡後世に所在の不明を■れ此処に石碑を建て明記し尚其の再建を期す者矣
 昭和40年(1965)5月18日建之
 財団法人杉山検校遺徳顕彰会


所在地 墨田区本所4-6-14

日蓮宗
 妙見山別院 能勢妙見堂
當山は大阪能勢妙見山の全國唯一の別院であり能勢家の子孫が代々守護に任じて居ります
今より195年前安永3年(1774)5月11日の創建です この地は當時下総ノ國葛飾郡本所横川町と称し能勢筑前守頼直の江戸下屋敷であり妙見堂を建立して知行所たる摂津ノ國妙見山より妙見尊像を分祀したものです。江戸末期幕臣勝小吉が愛息麟太郎後の海舟の開運勝利を水垢離を取って祈願したことは子母沢寛氏が「父子鷹」に詳しく記して居ります 
震災戦災と二度の火災の為め宝物尽く烏有に帰しましたが妙見尊像は巨難を免れ御内陣に奉呈されて在ります 境内に鴎大善神の祠ありその黒札は魔よけの御守として江戸時代より能勢の黒札として有名なり
 昭和44配年5月 能勢家36代能勢日妙誌す



 鴎稲荷神社


 水神堂

 能勢妙見堂には『』があります。












所在地 墨田区本所4-6-14 (能勢妙見堂)

 勝海舟翁之像
勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた
 昭和49年(1974)5月12日










所在地 墨田区千歳2-1-16

臨済宗妙心寺派
 東光山 要津寺

 要津寺には『雪中庵関係石碑群』、『中野撝謙墓』、『牧野家墓所』があります。


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