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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区千歳2-1-16 (要津寺)

 雪中庵関係石碑群
 雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島嶺蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより、当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には、蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養墓や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。
 平成10年(1998)3月 墨田区教育委員会

 雪中庵蓼太の句碑


 芭蕉翁俤塚




 芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」句碑
 
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所在地 墨田区千歳2-1-16 (要津寺)

 中野撝謙墓
 要津寺は、下総関宿藩七万三千石の初代藩主牧野成貞(致仕号大夢)が、その下屋敷であったこの地に、元禄4年(1691)に再興した臨済宗妙心寺派の寺院である。
 中野撝謙は、寛文7年(1667)8月6日長崎生まれた。名は継善、字は完翁、善助と称し、撝謙は別号である。母は大原氏で、書家の林道栄の妻と姉妹であった。幼くして父を失い、母ととともに林道栄方に身を寄せていた。道栄は自ら撝謙を養い教育を授けたため、よく林氏の神童と称された。19歳で江戸に出て朱子学を学び、神田雉子町で私塾を開いた。元禄の頃、関宿藩の儒官となり、貞享5年(1688)以降将軍綱吉の藩邸御成りに際しては、経書の講義を仰せ付けられた。このため諸侯や貴人に従学するもの多く、安藤東野、太宰春台なども門人のひとりであった。享保5年(1720)7月23日54歳で死去し、牧野家の菩提寺である要津寺に葬られた。墓石は長男行充によって建立されたもので、「撝謙中野先生之墓」とあり、碑文は太宰春台の撰文によるものである。
 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会


所在地 墨田区千歳2-1-16 (要津寺)

 牧野家墓所
 牧野家墓所は、区内の数少ない大名墓の一つです。代々旗本として仕え、5代将軍徳川綱吉の時に成貞が側用人に取り立てられ、関宿藩主となりました。要津寺は、成貞が下屋敷の一部である現在地に再興、成貞寺としましたが、父成儀の戒名から、要津寺と改称しました。その後、牧野家の下屋敷は緑町に移転。維新後も末裔の貞寧は、本所小学校(昭和21年〔1946〕廃校)の学務委員を務め、地域社会の発展に貢献しました。
 墨田区教育委員会


所在地 墨田区両国4-34

 榛稲荷神社



 棒稲荷神社には『葛飾北斎住居跡』、『棒馬場跡』があります。


所在地 墨田区両国4-34 (棒稲荷神社)

 葛飾北斎住居跡
 この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛があったので「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。
 本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は90歳で没するまで常に新しい技法を試み、「冨岳三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
 榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少し■高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、■■■■取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(『葛飾北斎伝』)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、80歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと意外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。
 北斎は生涯で90回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。
 また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝『夢酔独言』の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
 平成21年(2009)3月 墨田区教育委員会

    Site Associated with Katsushika Hokusai
 Katsushika Hokusai (1760-1849) is a famous Edo period ukiyo-e artist.He is particularly w■■  known for his series of prints,The Thirty-six Views of Mount Fuji.Hokusai's daughter,pictured here w■■ her aged father,was also a talented artist. This reproduction drawing entitled "Hokusai's Tempor■■ House" was made by Tsuyuki Iitsu,one of Hokusai's disciples,and he wrote that the house was near the Honnoki Inari Shrine.It is said that  Hokusai moved more than ninety times among his life.While ■■ locations of most of his homes are unknown,we have been able to identify that Hokusai lived in this are for a while.
 Katsu Kaishu (1823-1899) was a late Edo and Meiji period statesman.He was also born and raised in this neighborhood.
 Board of Education,Sumida City


所在地 墨田区両国4-34 (棒稲荷神社)

 榛馬場跡
 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。
 勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。
 天保8年(1837)に亀沢町の若者が奉納した木造朱漆の奉紙立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も稲荷神社脇に住んでいたことがあります。
 ぶらり両国街かど展実行委員会



所在地 墨田区両国1丁目~横網1丁目

 両国橋と百本杭
 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
 江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
 また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
 明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
 しかい、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
 平成23年(2011)3月 墨田区教育委員会


明治22年(1889)春狂言「忍宵恋曲物」百本杭の場新富座 
 豊原国周筆(国立国会図書館所蔵)


両国百本杭 『仁山智水帖』より(国立国会図書館所蔵)


所在地 墨田区横網1-3-28

 国技館
大相撲の殿堂。昭和60年(1985)、新国技館として蔵前から両国に復帰。1月、5月、9月に本場所を開催。相撲博物館が併設されており、相撲の歴史を体験できる(場所中以外は無料)。雨水は地下のタンクに貯められ、飲料以外の用途に使用されています。
Sumo tournaments are held every January,May, and September at this arena.The new Kokugikan was built in 1985 to return the tournaments to the historic Ryogoku location after a time in Kuramae.The stadium houses the Grand Sumo Hall of Fame and Mseum (free admittance,except when tournaments in session).The rainwater is collected in a tank placed at the basement to use in the facility.


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