忍者ブログ
東京都墨田区の歴史
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 墨田区横網1-12 (旧安田庭園)

 本園は潮入回遊式庭園で、隅田川の水をこの水門から池に導き、隅田川の干満の差を利用し、池の水を上下に変化させ、その水位の差により、池・石組みなどの景色に変化をあたえ、また島の浮き沈みなど、その眺めの変化を観賞するもので、世界にもあまり例をみない造園手法といえます。
 このような潮入の池をもた庭園は、他に旧浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園清澄庭園がありますが、いまでは海水のよごれにより、いずれも水門をとじてしまったため、潮入は見られません。
 墨田区において当園に潮入の再現を図るため、本園北側に約750平方メートルの貯水槽(貯水量約800トン)を地下につくり、これを利用し、池の水の浄化と、人工的に干満を行ない、潮入を再現することにより、この最後の潮入式庭園を保存することにしました。
 墨田区
PR


所在地 墨田区江東橋3-13 (錦糸町駅前)

   伊藤左千夫牧舎兼住居跡・歌碑

 この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫、本名幸次郎は、元治元年(1864)8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家の四男として生まれました。
 18歳の時上京して明治法律学校に入学しましたが、眼病のため中退、農業に従事しました。
 22歳の時再び上京、神田の牛乳店豊功舎に勤めました。その後、いくつかの店をかわり、26歳の4月にはこの地に牧舎つき住居を購入して独立、牛乳搾取業を始めました。毎日18時間も働いたと自ら記しています。
 30歳、同業の伊藤並根に茶の湯、短歌を学びました。当時春園と号し、桐の舎桂子の月例会に出席、『牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる』を発表して好評を得ます。
 やがて、短歌革新運動を進める正岡子規に共鳴して、1900年その門に入り、作歌に励みます。子規も、その才能を高く評価し、根岸派の有力な一員となります。
 子規歿後は、根岸派の機関誌『馬酔木(あしび)』『アララギ』により活発に作歌を続け、多くの著名な歌人を育てました。なお、左千夫には『野菊の墓』等の小説、写生文、歌論、新体詩等のすぐれた作品がたくさんあります。
 1913年7月30日、転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝し、亀戸の普門院に葬られました。大正2年(1913)7月30日50歳没。

 昭和59年(1984)3月 墨田区



よき日には
  庭にゆさぶり
    雨の日は
  家とよもして 
    児等が遊ぶも


                    伊藤左千夫


 左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)

    Ito Sachio's monument and ex dwelling and cattle stall
Poet and writer ITO Sachio(1864-1913),known for his sentimental love story 'Nogiku no haka', as a young man had his residence and dairy farm here at what is now the square of JR Kinshicho station.


 本所茅場町の牛舎(左から3人目が左千夫)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
  岡麗 撮影 明治41年(1908)頃


所在地 墨田区両国2-13

 緑雨は、慶応3年(1867)伊勢国神戸に斎藤利光、のぶの長男として生まれました。本名賢(まさる)、のち緑町に因み緑雨と号しました。
 11歳の時、両親と上京、やがて父が藤堂家の侍医となったため本所緑3丁目(現2丁目)の藤堂邸に住みました。小学校は弥勒寺(みろくじ)に近い土屋学校や江東小学校(現両国小)多数校を転々とし、最後は明治法律学校(明治大学の前身)を中退して終わっています。
 しかし、年少から才気あふれ、筆力は冴え、観察は鋭く人々を驚嘆させました。18歳の時、其角堂永機(きかくどうえいき)に俳諧を学び、その紹介で仮名書垣魯文を訪ね、彼が主筆の「今日新聞」の校正係となりました。やがて作家の途を進み、『油地獄』等の傑作や、辛辣や文壇批評で知られました。明治37年(1904)4月、奇行の多い人生をこの地に閉じました。戒名「春暁院緑雨醒客」は幸田露伴がつけました。
  墨田区教育委員会


 


所在地 墨田区太平1-26-16

日蓮宗
  平河山 本住院 法恩寺


 

  日蓮宗平河山法恩寺縁起

開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。太田道灌公長禄2年(1458)江戸城築城に当り丑虎の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時この附近を平河村と称したによるものである。当山には秀吉家康共に小憩され、又、朱印地も与えられた。



家康江戸城に入り、城内拡大に当って当山は神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄8年(1965)現在の地に映されたのである。当時塔中20ヶ寺、末寺11ヶ寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災(1923)、昭和20年(1945)3月の戦災に遭遇するも檀信徒並地元の外護により再建され昭和29年(1954)10月現在の本堂落成をみたのである。経石塔(三重塔)は昭和7年(1932)宗祖650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当時新様式鐘楼として名高いものである。
 奉納 横川二 岩田鉄工



日蓮宗 平河山 山内寺院案内
 法恩寺 千栄院 陽運院 法泉院 善行院

〔沿革〕
法恩院 開山 本住院日住上人 開基 太田道灌公

太田道灌公は長禄2年(1458)凡そ540年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城内鎮護の祈願所として、当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。
 時移り、徳川家康公江戸幕府を開くにあたり、慶長10年(1605)神田柳原へ移転。その後、慶安2年(1649)谷中清水町へ移り、元禄8年(1695)幕府の命により、現在地に移された。
 現在塔中は四ヶ寺であるが、元禄当時は、20ヶ寺を擁したと伝えられる。
 当地を太平町と称するのは、太田道灌公の太及び平河山の平を合わせたものである。
 大正大震災(1923)、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭遇、ニ度焼失、昭和29年(1954)10月現在の堂宇が建立された。
  維時 平成10年(1998)3月彼岸の佳日

 境内には『太田道灌公墓所』、『道灌公記念碑』、『鐘楼三重塔』、『日蓮聖人像』、『平川清水稲荷』、『花塚』があります。



    Hoonji Temple
The history of Hoonji Temple started when Ota Dokan,who constructed Edo Castle,built it in Edo Hirakawa (Chiyoda Ward) in 1458.The temple was opened by Saint Nichiju under the name of Honju-in.It was Dokan's grandson Sukeaka who changed the name to the current Hoonji.After several relocations,the temple was finally transferred to the current site in 1688.
 池波正太郎 鬼平犯科帳「尻毛の長右衛門」の舞台
引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。彼方に法恩寺の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花落本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、表門を入った両側には塔中が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花が、いまや咲きひらこうとしている。(略)
いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみをまっていた。


所在地 墨田区太平1-26-16 (法恩寺)

   花塚の記
 花を愛する心は 人生をいつくしむ心と同じである
 四季おりおりの花は 社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は咲かない 日本人は花にさまざまな思いを託してきた 神を祭り仏に供えることから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである 
 古人も花塚を築き 花供養を営んだが昭和37年(1962)9月中村理運氏の発願により花の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして安芸の彼岸には花供養が営まれている 敬虔な人々の心は また美しい日本の花である
 昭和46年(1971)9月


所在地 墨田区太平1-26-16 (法恩寺)

  太田道灌家供養塔



 太田道灌公は室町時代の武将で、永享4年(1432)関東官領扇ヶ谷上杉氏の執事姿清の子として相模に生まれました。歌人として、万里集九との交遊も知られています。幼名を鶴千代麿、源六郎と称し、成人してからは、持資(もちすけ)、資長(つけなが)と改め、備中守正五位下までのぼり、剃髪して道灌と号しました。道灌は、扇ヶ谷上杉定正に仕え、文武両道を修め、康正2年(1456)江戸城を築きここを居城としました。彼は、築城にかけても名手で、河越、岩槻の二城も築きました。また、足軽の用い方にもすぐれていたといわれます。文明18年(1486)主君定正は、太田道灌の名声をねたんだ他の家臣たちにそそのおかされて、相模糟屋の自邸に太田道灌を誘い出し、謀殺しました。享年55歳でした。
 この法恩寺はもと江戸平河町にあり、太田道灌が江戸築城のとき建立したものといわれ、太田道灌とゆかりが深く、子孫によって供養塔が築かれました。
 平成18年3月  墨田区教育委員会


 


所在地 墨田区太平1-26-16 (法恩寺)

   平川清水稲荷縁起
当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云い太田道灌公も是を愛でゝ

 武蔵野の 
  小川の清水絶えやらで
   岸のねせりを洗いことすれ


と詠まれている 当時のその小川の畔本住院(当時の旧称)の側に稲荷の詞が祭られていて 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内に其の碑柱が伝わって由緒を物語っている


所在地 墨田区横川1-15

 このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦3年(1657)の大火(振袖火事)の後に、江戸市街を拡張するために開拓が進められ、元禄年間(1688~1703)頃になると、周辺に武家屋敷や寺院などが建てられるようになりました。室町時代に江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄2年(1689)に現在地(太平1丁目)に移転してきました。
 横川1丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図によると、太田道灌の一族である大竹の抱屋敷があったとされています。また、明治時代には、ゴム製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本に於ける近代ゴム工業の礎となった三田土護謨製造合名会社がありました。
 平成9年(1997)、東京都住宅供給公社の都民住宅建設工事に■■■■■旗本大竹の抱屋敷に関わる遺跡が確認され、墨田区教育委員会の指導の下に、横川一丁目遺跡調査会が発掘調査を実施しました。
 調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみられる大溝、太田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・遺物が発見されました。
 また、明治時代のものとして「三田土」の墨書や焼印のある木札や板、ゴム製品が出土し、三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。
 このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を物語る貴重な埋蔵文化財の包蔵地となっています。
 平成11年(1999)2月 三田土会 墨田区教育委員会


所在地 墨田区菊川1-16-11 (NTT本所ビル)



  明治33年(1900)2月18日開校
墨田工業高等学校発祥の地
 東京府による工業教育ここに始まる
   東京都立墨田工業高等学校
   第十七代校長 稲見辰夫 謹書


所在地 墨田区
 ~ 江東区

  二ッ目通り(清澄通り)
 明暦3年(1657)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治2年(1659)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661)に完了しました。開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、ニ之橋・・・・五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは堅川ニ之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に堅川ニ之橋通りの名が残されています。


所在地 墨田区吾妻橋1-23

 この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移り変わり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
 文政5年(1822)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
 その後、明治33年(1900)札幌麦酒東京工場がここに設置され、明治39年(1906)には第二本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年(1920)の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
 平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。
 平成3年(1991)3月  墨田区


所在地 墨田区吾妻橋1-23-20 (墨田区役所)

 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
 海舟生誕180年
 平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇



右手を突き出した海舟の像は、新しい日本を思い描き、アメリカを目指そうとする姿を表現。
This statue of Kaishuu Katsu with his right arm extended depicts the statesman envisioning a new Japan as he prepares to depart for the United States. 



  勝海舟略年表
1823 文政6
 江戸本所亀沢町の男谷邸(現両国4丁目)に生れる。父は勝小吉、母は信子。通称麟太郎。名は義邦。
1829 文政12
 12代将軍家慶公の五男初之丞に召されたという(9歳または12歳まで)。
1837 天保9
 父小吉隠居し(号夢酔)、家督を相続。
 島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始める。夜は牛島神社(王子権現)で寒稽古。
1841 天保12
 牛島の弘福寺にて、座禅を修める。
1845 弘化2
 岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚。
 永井青崖に蘭学を学ぶ。
1846 弘化3
 本所から赤坂田町に転居。
1848 嘉永1
 日蘭辞書「ヅーフハルマ」の筆写(2部)終了。
1850 嘉永3
 父小吉死去(49歳)。
 赤坂田町に私塾を開き蘭学と静養兵学を教授。
1852 嘉永5
 諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲を鋳造。
1853 嘉永6
 「海防意見書」を提出。
1855 安政2
 大久保一翁の推挙で、藩書翻訳勤務を命じられる。
 長崎海軍伝習を命じられる。
 小普請組から小十人組となる。
 9月1日長崎に向かう(10月20日長崎着)。
1856 安政3
 講武所砲術師範役となる。
 海軍伝習の功により大番に番替えとなる。
1858 安政5
 咸臨丸で下関・五島・対馬・鹿児島などを巡航。
 鹿児島で島津斉彬に謁する。
1859 安政6
 長崎の伝習を終え、江戸帰府。
 赤坂元氷川町に転居。
 アメリカ派遣を命じられる。
1860 万延元
 咸臨丸で品川沖を就航、アメリカに向かう。
 サンフランシスコ到着。
 サンフランシスコを出向、帰国の途につく。
 浦賀に帰港。
 江戸に帰る。
 藩書調書頭取助となる。
1861 文久元
 講武所砲術師範役となる。
1862 文久2
 軍艦操練所頭取となる。
 軍艦奉行並になる。
 坂本龍馬ほか9名海舟の門下生となる。
1863 文久3
 将軍家茂の摂津湾巡覧を案内、家茂から直接神戸海軍操練所設立の許可を得る。
 12月28日再上洛する将軍家茂を奉じて海路で大阪へ向かう(元治元年正月8日大阪着)。
1864 元治元
 2月5日一橋慶喜より、長崎派遣を命じられる(4月12日大阪帰還)。
 軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。
 神戸海軍操練所設置布達。
 11月10日軍艦奉行罷免、寄合となる。(慶応元年〔1865〕3月9日神戸海軍操練所廃止)。
1866 慶応2
 軍艦奉行再勤を命じられる。
 一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受ける。
 安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談、休戦を協定。
1867 慶応3
 海軍伝習掛を命じられる。
1868 慶応4
 海軍奉行並となる。
 陸軍総裁となる。
 陸軍総裁を免じ、軍事取扱を命じられる。
 高輪の薩摩藩邸にて西郷隆盛と会見。
 田町にて再び西郷と会見、江戸無血開城を決める。
 江戸城引き渡し終了。
1868 明治元
 改元
 10月11日蒸気船で東京を離れ駿府に向かう(12日着)。
1869 明治2
 安房守を安芳と改める。のちに安芳を本名とする。
 7月18日外務大丞に任じられる(8月13日辞退免職)。
 11月23日兵部大丞に任じられる(翌年6月12日辞退免職)。
1870 明治3 
 母信子、静岡で没。
1872 明治5
 海軍大輔となる。
 静岡より帰京、赤坂氷川町4丁目に居す。
1873 明治6
 島津久光慰撫のため、鹿児島へ派遣の命を受ける。
 参議兼海軍卿となる。
1875 明治8
 4月25日元老院議官に任命されるが、直ちに次表提出(11月28日に承認)。
1879 明治12
 木下川浄光寺境内に西郷隆盛類等の碑を建立。
1883 明治16
 吉井友・税所篤らと 西郷隆盛の名誉回復運動始める。
1884 明治17
 遺児寅太郎の参内で西郷隆盛の名誉回復。
1887 明治20
 伯爵となり、華族に列す。
 「吹塵録」35冊、「吹塵余録」9冊編纂成る。
1888 明治21
 枢密顧問官となる。
 「海軍歴史」25巻編纂成る。
1889 明治22
 「陸軍歴史」30巻編纂成る。
1890 明治23
 貴族院の伯爵議員に互選されたが辞退。
1891 明治24
 「開国起源」成る。
1892 明治25
 長男小鹿病死(41歳)。2月徳川慶喜の十男精を養子にすることを内定。
1895 明治28
 朝鮮処分等につき意見書を起草。
1898 明治31
 徳川慶喜参内して天皇・皇后に拝謁し、名誉回復。
 慶喜、海舟宅を訪れ名誉回復の謝意を表す。
1899 明治32
 自邸で死去(発喪は21日)。
 青山墓地で葬儀。洗足池畔に葬る。
(江戸東京博物館『没後100年勝海舟展』を参照)
 平成15年(2003)7月21日  墨田区教育委員会


所在地 墨田区押上1-1

  東京スカイツリー
 東京スカイツリーは東京都墨田区押上に建設中の電波塔。2012年5月22日開業で高さは634m。
 地上デジタル放送用の電波塔ですが、本来の建設目的は、東京都心部に建てられている超高層ビルの増加に伴う、東京タワーの電波障害を低減することにあります。
 2011年完成時点で、自立式鉄塔としてはキエフテレビタワーの385mを上回る世界第1位。自立式建築物としては広州テレビ・観光塔(建設中)の610mを上回り、ブルジュ・ドバイ(建設中)の818mに次ぐ世界第2位となる予定です。



 Tokyo Sky Tree
Scheduled for completion in the spring of 2012,Tokyo Sky Tree will rise to a height of 634 meters to become the world's tallest freestanding broadcasting towaer,affording visitors a panoramic view of Tokyo.




所在地 墨田区向島1-3 (隅田公園)

  「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑
 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを展覧したのです。
 隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。


所在地 墨田区向島1-3 (隅田公園)

  藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
 江戸末期の尊皇攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正気歌」の刻まれた漢詩碑です。
 弘化2年(1845)11月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
 「天地正大の気、悴然として神州に鐘まる。秀でては富士の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ・・・(下略)」と、五言七十四句のナカに天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
 中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
 東湖は、文化3年(1806)水戸に生まれ、彰考館編修として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政2年(1855)の大地震のときに、50歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
 この碑は、昭和19年(1944)6月に東湖会が建立しました。
 平成20年(2008)3月 墨田区教育委員会


Touko Fujita wrote the "Song of Sound Spirit" in order to raise morale among his fellow royalists while confined here to the suburban residence of the daimyo of the Mito domain during  the last days of the Tokugawa shogunate.


所在地 墨田区向島1-3 (隅田公園)

  富田木歩終焉の地
 富田木歩とみたもっぽは本名を一といい、明治30年(1897)に墨田区向島2丁目の鰻屋の次男に生まれました。2歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろはカルタ等で遊びながら文字を覚えました。
 たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、2人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌『ホトトギス』を知り、俳句に惹かれます。
 やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。彼を理解し援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもできました。しかし、妹も弟も肺患で死に彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
   かそけくも 咽喉(うど)鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
 木歩は関東大震災にあり、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。26歳でした。
 平成元年(1989)3月 墨田区


所在地 墨田区向島1-4-5

  牛嶋神社(牛島神社)







 牛嶋神社境内には『烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑』、『撫牛』、『力石』、『浮島の牛牧レリーフ』があります。


所在地 墨田区向島1-4-5 (牛嶋神社)

墨田区登録文化財
  烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑

いそかすは 濡れまし物と 夕立の 
   あとよりはるゝ 堪忍の虹
」 
              談洲楼烏亭焉馬

 この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生れ、本所相生町5丁目(現 緑1丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談州楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
  元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
 文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
 (現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)。
 平成7年(1995)3月  墨田区


所在地 墨田区向島1-4-5 (牛嶋神社)

  浮島の牛牧
 文武天皇もんむてんのう(701~704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
 時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。
 明治19年(1886)の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
 平成9年度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業

    THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
                Ukishima Dairy Farm
 In the era of the Emperor Monmu(701-704),national cattle farms were said to have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is from Mukojima toward Ryogoku at the present.
 Since 701,as many as 39 national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan.Here,in Honjo,was also one of the national farms called "Ukishima Dairy Farm ".
 With the introduction of westerncivilization in the late Edo Era and the resulting increase in demand for dairy products,there were at the peak time a number of daity farms in Honjo area at the beginningof Meiji Era.Herds of cattie were lazily grazing over the pastures around this shrine.


所在地 墨田区向島1-4-5 (牛嶋神社)

墨田区登録文化財
  撫牛



 撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
 この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
 明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
 平成17年(2005)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区向島2-3-5

  すみだ郷土文化資料館
隅田川を中心とした墨田区の歴史・伝統文化を紹介し、その遺産を継承していくことを目的とした「ふるさと博物館」。保存資料はもとより、模型やマルチメディアなどを駆使しさまざまな趣向をこらして紹介されています。
This homutown museum was established to introduce visitors to the history and traditional culture of SUmida Ward with a focus on the Sumida-gawa River,thereby helping ensure that the area's rich legacy will be passed on to future generations. Visitors can enjoy a range of preserved historic matrials as well as elaborate exhibits including models and multimedia displays.


所在地 墨田区横網2台東区

  蔵前橋

 蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
 この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
 近代になって、政府関係など倉庫となり、その中には浅草文庫地宇書庫などもあった。




 


所在地 墨田区向島4-9-13

  秋葉神社
祭神 火産霊命(千栄秋葉大権現)
    宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)
 昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感を得てこの社に詣り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田與右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賽にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願時を興して別当となった。
 爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年(1868)神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正12年(1923)の震災に社殿倒壊し、昭和5年(1930)復興したが、昭和20年(1945)戦災にかかり昭和41年(1966)氏子崇敬者の奉賽により現社殿を再建した。
   主な祭事
歳旦祭     1月1日 
祈年祭     3月3日
例祭       9月中旬
鎮火大祭  11月17日18日
新嘗祭   11月23日
縁日      毎月3日18日
 昭和61年(1986)10月18日建之  社務所



 秋葉神社境内には『石燈籠』があります。


忍者ブログ [PR]
カウンター
現在の閲覧者数
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
歴史を未来に伝える。
HP:
性別:
男性