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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  鶴久子歌碑つるひさこかひ

空蝉の世の うきことは きこえこぬ 
     いわおの中も 秋風のふく
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所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  東京市碑
向島百花園来由の碑   昭和14年(1939)7月建之

名勝向島百花園ハ文化元年(1804)佐原鞠塢ノ開創スル所ニシテ風流文雅・名所トシテ聞ユルコト久シ鞠塢ハ仙臺ノ人江戸ニ出テテ骨董商ヲ営ミ北野屋平兵衛ト称ス性園圃ノ枝ニ通シ文墨ノ才ニ富メリ晩年産ヲ治メ寺島村多賀氏ノ舊地三千餘坪ヲ購ヒテ閑居スルヤ自ラ鋤鍬ノ労ヲ執リ文苑ノ名士ト胥諮リテ梅樹竝ニ四季百花ノ粹ヲ蒐メ詩韻豊力ナル花圃トナス春夏秋冬花開カサルナク東西南北客争ヒ来リ花屋敷百花園ノ名普ク世ニ布クニ至レリ然ルニ明治以来屢出水ノ厄ニ羅リ園景遂ニ荒廃ニ瀕スルヤ故小倉常吉氏ハ深ク之ヲ惜ミ大正ノ初資ヲ投シテ園地ヲ収メ舊景ヲ保存シ他日公開ノ意図ヲ有セラレシヤ不幸易簀セラレタルヲ以テ未亡人小倉乃■刀自ハ其意思ヲ継承シ昭和13年(1938)10月園地一切ヲ挙げて東京市ニ寄附セラレタリ
本市ハ寄贈者ノ芳志ヲ體スルト共ニ曩ニ昭和8年(1933)史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ指定セラレタル本園保存ノ趣旨ニ遵ヒ鋭意之カ復讐ヲ図り今ヤ公開ヲ見ルニ際シ茲ニ其来由ヲ記シ以テ後世ニ傳フ    東京市


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  きょうげん塚
二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を跨えて明治25年(1892)の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。
 明治27年(1894)11月


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

 日本橋石柱
日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  芭蕉「こんにゃく」の句碑

こんにゃくの さしみも些し うめの花
               はせを


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  芭蕉「春もやや~」の句碑

春もやや けしき ととのう 月と梅
               はせを


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

 飯島光峨翁之碑銘碑いいじまこうがおうのひめい
 
     明治33年(1900)7月


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  福禄寿尊堂

隅田川七福神 福禄寿


                                        福禄寿尊碑


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

 北元居士句碑ほくげんこじくひ

水や空 あかり持あう 夜の秋

               惟草書


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

 鷺流狂言師 矢田蕙哉翁やだけいさいおう句碑

花暮ぬ 我も帰りを 急うずる  

     明治26年(1893)癸巳7月建之


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  螺舎秀民らしゃしゅうみん句碑

葦の芽や 田へ来水も 角田川  
    
     明治18年(1885)10月建之


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  寶屋月彦たからやつきひこ句碑

うつくしき ものは月日ぞ 年の花   

     明治24年(1891)7月建之


所在地 墨田区業平2-14-9

日蓮宗
 長養山 春慶寺

 春慶寺境内には『四世鶴屋南北の墓』、『岸井左馬之助寄宿之寺の碑』があります。


                                          普賢堂


所在地 墨田区業平2-14-9 (春慶寺)

  四世鶴屋南北の墓
 南北は「大南北」と尊称された江戸時代の狂言作者です。宝暦5年(1755)に江戸日本橋の紺屋形付職人伊三郎の子として生まれ、幼名は勝次郎(または伊之助)でした。はじめは父とともに仕事をしていましたが、せいらいの芝居好きから安永5年(1776)、狂言作者初代桜田治助の門に入りました。翌安永6年(1777)には、中村座の「将門冠初雪」という作品に桜田兵蔵の名で作者の一人として初めてその名を連ねました。
 立作者(筆頭作者)となったのは、享和元年(1801)といわれていますが、出世作は文化元年(1804)河原崎座で上演の「天竺徳兵衛韓噺」です。尾上松助(後の松緑)扮する徳兵衛の水中早替りの妙技とあいまって、七十日余りにわたって大入り興行となりました。
 文化7年(1811)には四世鶴屋南北を襲名し「於染久松色読販」、「東海道四谷怪談」など庶民の生活を克明に、時には大胆に描いた傑作を次々と世に送り、人々から圧倒的な支持を得ました。文政12年(1829)11月27日、75歳で没しました。
 記録によると、墓石には正面に「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には墓誌名の記載もありましたが、震災・戦災による被災のためかなり損傷しました。
 昭和58年(1983)、劇作家宇野信夫の染筆を以て新しい墓石が作られました。
 平成20年(2008)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区業平2-14-9 (春慶寺)
  
 『鬼平犯科帳』中で岸井左馬之助(江守徹役)が春慶寺を寄宿の寺としていたことから、江守徹により碑が建てられる。


所在地 墨田区業平5-7-7 

日蓮宗
 柳嶋妙見山 玄和院 法性寺



 法性寺境内には『昔ばなし柳塚』、『葛飾北斎顕彰碑』、『風也坊秋香句碑』があります。

 


所在地 墨田区業平5-7-7 (法性寺)

  昔ばなし柳塚
 この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。
 江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治17年(1884)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。明治22年(1889)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。
 やがて大正6年(1917)になって、寄席が会社組織となり、300人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する150人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。
 平成13年(2001)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区業平3-2-5

  大雲寺跡(役者寺)
 この地は「役者寺」とも「赤門寺」とも呼ばれた浄土宗知恩院末の寺院跡です。本尊は運慶作の阿弥陀如来と伝えられています。
 元和6年(1620)に梵譽貞存が浅草森田町に創建しました。寛文8年(1668)に類焼したため、本所押上村に新しい土地を幕府から拝領しました。江戸幕府による市街地の拡張の一環として行われた最初の本所・深川の開拓に伴う移転だったと考えられます。
 歌舞伎の初代中村(猿若)勘三郎以後十三代、初代市村羽左衛門以後十六代、さらには四、五、六代松本幸四郎や初代、三、五、六代の尾上菊五郎ら多くの歌舞伎役者たちの菩提寺であることから「役者寺」とも呼ばれました。
 関東大震災を契機として、昭和6年(1931)、現在の江戸川区西瑞江2丁目に移転しました。
 平成10年(1998)、この大雲寺の範囲の一画であった墨田区職員住宅の建築に伴い、江戸時代の埋葬墓等の遺構が発見され、発掘調査が実施されました。
 平成20年(2008)3月  墨田区教育委員会
恵比寿
大国神
 見囲神社 墨田区向島2-5-17

布袋尊
 弘福寺 墨田区向島5-3-2

弁財天
 長命寺 墨田区向島5-4-4

寿老人
 白鬚神社 墨田区東向島3-5-2

福禄寿
 百花園 墨田区東向島3-18-3

毘沙門天
 多聞寺 墨田区墨田5-31-13

 文化元年(1804)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでてい数字とされている。七難即滅、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれである。
 昭和45年(1970)11月3日 建設  墨田区


所在地  墨田区吾妻橋3-4江東橋1-8・緑4-22

 墨田区立 大横川親水公園
 施設の概要
この公園は、大横川の一部を埋め立ててできた親水公園です。
公園の大きさは、幅30~40m、長さ1.85km、面積約63,000㎡で、墨田区の中心を流れる北十間川との合流地点から、墨田区の南側を流れる堅川との合流地点までの区間となっており、平成5年(1993年)4月1日に開園しました。
園内は北から5つのゾーンに区分され、それぞれ色彩豊かな花の広場と釣堀(釣川原ゾーン)、子供たちがじゃぶじゃぶと遊べる水路(河童川原ゾーン)、緑豊かな渓谷と多様な生き物が生息するビオトープ(花紅葉ゾーン)、開放感のあるイベント広場(パレットプラザゾーン)、様々なスポーツが楽しめる広場(ブルーテラスゾーン)の特徴を持っており、公園利用者へ貴重な憩いの空間を提供しています。
 歴史と沿革
大横川の歴史は、明暦3年(1657年)の江戸最大の火災といわれる大火から始まりました。
江戸幕府は、復興の際、火除地等の確保のため、家屋の転移を図り、河川を掘り開き橋を架け、土地の整備を行いました。このとき掘られた河川の一つが大横川で、本所地域を南北に貫通しており、近年まで舟運、材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきました。しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によって、かつての機能は失われ、昭和56年(1981年)から大横川の埋め立てが進められました。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、平成5年(1993)に完成しました。
横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。その後、昭和40年(1965年)施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼ばれるようになりました。

ホームページ⇒http://www.city.sumida.lg.jp/matizukuri/park/kunai_park_annai/sumida_park/park60.html







大横川を整備した総延長1,800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに人工のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある施設が設けられています。
Oyokogawa-shinsui-koen Park is a water park with the well-maintained Oyokogawa River  of a total length of 1,800 meters.The pak connects Kinshicho,Oshiage,and Narihira.Within each area divided by a bridge or other  borders,you will find unique facilities such as an artificial brook,a fishing hole,and an open space.


大横川親水公園内には『清平橋跡』、『長崎橋跡』があります。








所在地 墨田区錦糸1・太平1~石原4・亀沢4 (大横川親水公園)

 清平橋跡
 大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により昭和4年(1929)に架けられました。
 かつては川の西側が清水町、東側が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文字ずつ取って清平橋と名づけられました。
 架橋時は長さ38.97mの鋼橋(3径間ゲルバー橋)でしたが、老朽化が進行したため、架橋から82年が経過した平成23年(2011)に、長さ10.00mのコンクリート橋(プレテンション方式PC単純床版橋)に架け替えました。
 架け替えを記念して、旧橋の橋名板と鋼材の一部を遺してその歩みを記します。
 平成24年(2012)3月




昭和32年(1957)当時の清平橋(墨田区立緑図書館所蔵)



架け替える前の清平橋


所在地 墨田区錦糸1~亀沢4 (大横川親水公園)

 長崎橋跡
 ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、両名によって、墨田区亀沢4丁目より同錦糸1丁目に架けられました。
 最初は長さ10間(18.0m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年(1929)6月には、鋼橋(トラス)になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。
 なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名づけられ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。
 平成3年(1991)6月


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