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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区横川1-3-20

浄土宗
 霊性院



 霊性院には『子育厄除開運地蔵尊』があります。


所在地 墨田区横川1-3-20 (霊性院)

 子育厄除開運地蔵尊
夜店通り縁日の地蔵尊は霊性院境内安置の子育厄除開運地蔵尊で今を去る257年(正徳年間)徳川年間当代三世松誉代当院境内(元太平町1丁目150番地)に井戸を開穿するに至り三丈余りを堀下しに忽ち渡々なる清泉と共に出現せられたる霊像にして当時恰も本所深川一帯に亘り悪疫大に流行し為に児童の斃しも其の致を知らざる有様なりしに一度此の霊像世に出現せらるゝや悪疫は速やかに退散し普く其の霊益を蒙り悉く本復になりしと云ふ爾来此の霊像を子育厄除開運地蔵尊と称し其の名遠近に高く日々奉賽祈願する者甚だ多かりしと云ふ
斯くして大正12年(1923)震災前には毎月14、24日両日は当院境内は忽論元太平町老の98番地附近に迄縁日出店有り賽者人多かりしも震災と同事に中絶の止むなきに至り然るに区画整理も完了し道路等も完成せしに付此の際該縁日を復興し町内繁栄無産の救済併て信仰鼓吹民心善尊に資しも又々戦災に遇い灰燼に終りし処昭和28年(1953)相互会の会員全員の尽力に依り再び諸民の前に出現して昔日の如く日夜とはず賽者人少からず
 霊性院第三十一世性譽種山遺稿
 平成7年(1995)8月 地蔵堂新築記念
 奉納者 岡本八十二 田中市右衛門


 


所在地 墨田区横川1-3-22

浄土宗
 常在山 霊山寺






 


所在地 墨田区横川1-12-12

日蓮宗
 妙栄山 本法寺

 本法寺には『狩野元信墓』があります。


所在地 墨田区横川1-12-12 (本法寺)

 狩野元信墓
 本法寺は、文禄4年(1595)、日慶が神田に創建し、慶安2年(1649)谷中に移り、さらに元禄2年(1689)に本所の現在地に移転しました。
 狩野元信は室町時代の画家です。文明8年(1476)、狩野派の始祖狩野正信の長男として京都に生まれました。のちに将軍義晴の命により剃髪して法眼となり、永仙と号しました。父の跡を継いで室町幕府の御用絵師となり、狩野派発展の基礎を確立しました。
 元信は父の画風を受け継ぎながら漢画の既成諸様式を修め整理融合し、大和絵の手法をくわえて装飾性豊かな障壁画の様式を大成しました。代表作には大徳寺大仙院客殿襖絵や妙心寺霊雲院旧方丈襖絵などがあります。永禄3年(1559)10月16日、84歳で没しました。
 この墓は昭和30年(1955)10月狩野文氏によって再建されたものです。
 平成16年(2004)3月 墨田区教育委員会











所在地 墨田区亀沢4-11-15 (竪川中学校)

 山岡鉄舟旧居跡
 江戸末期の幕臣で剣術家、維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めた山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました。
 鉄舟は天保7年(1836)、御蔵奉行だった旗本小野朝右衛門高福の五男として生まれ、鉄太郎と名付けられました。
 安政4年(1857)頃、槍術で知られる旗本山岡静山の妹婿となり山岡高歩、号は鉄舟を名乗りました。鉄舟の義兄にあたる槍の名手精一郎は、はたもと高橋家に入婿し、後に泥舟と号するようになります。勝海舟も含めてこの3人は「幕末の三舟」として知られています。
 慶応4年(1868)、江戸城総攻撃に先立ち鉄舟は西郷隆盛と接触し、勝海舟と協力して江戸城無血開城への道を開きました。
 明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令となり、明治4年(1871)より明治天皇の侍従として厚い信頼を得ましたが、明治21年(1888)53歳で死去し、台東区谷中の全生庵に葬られました。
 鉄舟は書家一楽斎としても有名で、区内木母寺にある「三遊塚」の碑は鉄舟(表)、泥舟(裏)の筆になります。
 平成20年(2008)2月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区業平1-7

 小梅銭座跡
 勝海舟編「吹塵録」に銭座請負人として、「小梅・野州屋・南部屋」の名が確認されます。しかし、その期間と鋳造額はわかっていません。また、銭座の位置は、業平橋から東方に税務署あたり言ったに及んでいたと伝えられています。
 その他、区内では押上・本所番場・・本所横川にも銭座が置かれていたと言われており、本所番場の下吹所では、天保銭が鋳造されていました。
 江戸時代には、一般に金貨・銀貨と銅・真鍮・鉄からなる銭貨との三種類の貨幣が流通していました。当時それぞれの鋳造所は、金座・銀座・銭里と称されていました。
 銭座は、寛永13年(1636)に芝と浅草橋場に設置されたのが最初です。その後、江東地域への鋳造所設置が多くなり、この小梅銭座は、元文元年(1736)寛永通宝の銅銭を鋳造したところで、銭貨の背面上部に「小」の文字が入ってます。
 平成2年(1990)3月 墨田区











所在地 墨田区業平2-13-13

 押上天祖神社
 押上天祖神社は、明治5年(1872)10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて、今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。
 当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は押島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。
 また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治5年(1872)村社に列する事となり、明治11年(1878)の記録には、武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭と云う文献が残っている。
 天祖神社は、呼名を旭神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺と云う寺が管理して居たのが明治初年(1868)に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天神社は其の末社と云う事になっている。
 又大正10年(1921)に大祭が行われ、大正12年(1923)の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は平川橋4丁目地域にあったのが、後、昭和3年(1928)の区画整理で、現在地(業平2の13の13)に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大地震で焼失後社殿も新築されたが、昭和20年(1945)3月10日の戦災で、又も焼失した。そして昭和27年(1952)度大祭の折、再び新築し、続いて昭和32年(1957)の大祭には鳥居が再建され、又生垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。昭和37年(1962)境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の六ヶ町の外に新たに旧業平橋1丁目と、旧向島押上町が加わり、八ヶ町の神社となっている。
 現在の大神輿は明治21年(1888)5月5日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で2回に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬかれたので大御輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。
 其の間、明治44年(1911)9月、大正10年(1921)5月と何回かの修理を行って居ります。(墨田区史より)
 平成10年(1998)7月吉日 押上天祖神社総代会











 押上天祖神社には『天祖神社鎮座六百年記念碑』があります。







所在地 墨田区業平2-13-13 (押上天祖神社)

 天祖神社鎮座六百年記念碑
 顧みれば本年は戦災を受けて十三年を迎えた。昭和20年(1945)3月9日夜半より10日未明の帝都空襲は實に大規模の爆撃であり、全都に多大の被害を與え、江東地帯は其の渦中にあって一夜にして全くの焼土と化し多数の犠牲者を出した。當社亦社殿及社務所は焼失、鳥居は破壊したが不思議にも神輿庫は大正12年(1923)9月1日の関東大震災で昭和20年(1945)の爆撃にも災を免れた。
 當時氏子の住居も全焼し生活も困難の極に在った。
 昭和20年(1945)8月15日戦争を迎え爾来十有余年、人々の努力により生活も豊かになり、人心も安定し、町は以前にも増して復興した。氏神の社を一日も早く復旧しようという氏子は茲に御神徳の廣大と今は再び帰らぬ殉難の方々の永遠の冥福を記念し此の記念碑建立の所以とする。
 昭和32年(1957)9月15日建之 建碑者一同  恩田眞宏書



所在地 墨田区錦糸1-6-12

 津軽稲荷神社
津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治43年(1910)の大水害と共に拂下られ太平町1丁目町会の所有となる昭和7年(1932)町名変更の際錦糸1丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正12年(1923)関東大地震及昭和20年(1945)戦災の為焼失昭和35年(1960)拝殿及社務所会館再建落成致しました又弁財天は江之島弁財天の分神で鳥居は明治百年を記念して昭和44年(1969)再建されました町民一同之信仰の的とされて居ります尚津軽華子様常陸宮様との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたので神社内に保存してあります。
 昭和58年(1983) 明友会

 「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭や塩原」と言われた弘前藩津軽家の中屋敷の跡。明治時代、屋敷内に祀られてた屋敷神(稲荷)だけを残し、屋敷は撤収されました。
Inari,originally an agricultural deity of harvests,has come to be worshipped here as the guardian of the area.The shrine used to protect the residence of the Tsugaru samurai family of the Hirosaki domain before the  buildeng was taken over by the neighborhood association when the rest of the estate was disprersed during the Meiji period (before 1912).







 辨財天


 


所在地 墨田区錦糸4-15-1 (錦糸公園)

 千種稲荷神社
千種稲荷神社は江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが寛文から延宝の20年間(徳川4代将軍家綱の時代)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ更に其の後この地を武家の下屋敷の敷地として整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され加えて横十間川が当時船運の盛んな処であった関係で武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後徳川幕府は明治政府に替り明治2年(1869)大政官の布達により従来の武家制度は廃止され武家下屋敷も解体されて農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。
其の後政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設し其の敷地内に此の稲荷社があり陸軍省は、敷地整地に際しこの稲荷社を取払いし処、其の後倉庫並びに周囲に再三火災発生し陸軍省も面目問題として苦慮を重ね後になり敷地内より取払ったままになっていた稲荷社に気付き旧位置に再建して祀りし処、不思議にも其の後火災等全くなくなりました。大正12年(1923)の震災には此の地一帯は灰燼に化したが稲荷社には少しの被害も受けませんでした。昭和3年(1928)7月18日復興局の手により創設された錦糸公園も開園とあり同じ頃、神田より製菓業者が公園の周辺に集団移住し営業を開始せし処早々より町内に火災多発して町民は不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが昔より此の地に祀られて有った守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に町内有志により探し出し公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり又、商売繁盛、災厄消除当諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和20年(1945)3月10日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和29年(1954)千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ其の年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渡り工事を重ね境内の整備を完了した次第であります。昭和30年(1955)5月18日付を以って右建物一切を東京都の申し出により都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和40年(1965)4月から墨田区の公園となりました。
昭和50年(1975)千種講より春秋2回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
 (趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より) 















所在地 墨田区吾妻橋2-2-10

日蓮正宗
 妙縁寺





 妙縁寺には『』があります。






所在地 墨田区吾妻橋2-2-10 (妙縁寺)

 「夜寉井銘」の碑やかくいめいのひ
 『御府内寺社備考』や『葛西志』にも記されていたのが、ここ妙縁寺にあった「夜寉井」の井戸です。いつ掘られたのかはわかりませんが、人々から愛され、そのそばにこの石碑が建てられました。
 宝暦2年(1752)、儒学者井上蘭台が中国の『詩経』から多分に引用しながら詩を作り、書家滕包貫が宝暦12年(1762)に建碑しました。
 銘井寉夜
風雨如晦爰喪幼孫耿不寝念彼九原嗟茲胎禽馨聞干野薄言求之寒泉之下迨其今兮清冽且深自詒伊戚實労戒心寶暦二季六月蘭臺井上通凞撰
 
詩の意味を簡単に説明すれば、
「風雨が闇のような中で、鶴は我が子を失い、気になって眠れずにあの世を思い浮かべている。と、この泉で囁くような声を聞いた。今もこの木は清らかで、鶴同様に自らの憂いを残すように、心を和ませてくれる。」
というものです。(他にもいくつかの解釈があります)
 井戸は安政大地震でふさがりましたが、安政6年(1859)に日蓮正宗第五十一世日英上人によって再興されました。しかし、関東大震災によって再びふさがりました。
 飲料水に乏しく、水に苦労してきた本所地域において、貴重な歴史資料といえるでしょう。
 平成14年(2002)3月 墨田区教育委員会







所在地 墨田区吾妻橋3-6

 南蔵院跡(しばられ地蔵と業平伝説)
 この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありました。しばられ地蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。
 ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしまいます。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を安じ、このお地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白州で地蔵の裁きをする旨のお触れまで出したのです。このうわさはたちまち広まり、お裁き当日の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納めさせました。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。越前守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
 この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻ってくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵と呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。
 一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・在原業平をまつったものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡ったときに「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠みました(『伊勢物語』)。現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残してのは、このことに由来しています。
 南蔵院は、昭和元年(1925)に葛飾区水元に移転しましたが。現在でもしばられ地蔵の信仰と風習で知られています。
 平成21年(2009)3月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区江東橋1~緑4

 時の鐘跡撞木橋跡しゅもくばし

ここに架かっていた撞木橋は万治2年(1659)当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋1丁目より、同緑4丁目の大横川に架けられました
 最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年(1330)7月には、鋼橋(トラス)になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年(1987)10月に撤去されました。
 なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられましたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。
 平成11年(1999)2月

堅川と横川の合流付近に、本所・深川のまちまちに時を告げる「時の鐘」がありました。鐘を打ち鳴らす撞木(しゅもく)から近くにあった北辻橋、南辻橋、新辻橋の3つの橋を「撞木橋」と名づけられたが、昭和63年(1988)に撤去されました。
Near the former junction of the Tatekawa and Yokokawa rivers in mid 17th century stood a bell reglarly rung to announce te hours for theHonjo and Fukagawa neghborhoods.Three nearby bridges:Kitatsuji,Minamitsuji,and Shintsuji were called the Shumoku bridges after the wooden hammer (shumoku) used to strik the bell.They were dismantled in 1988.



所在地 墨田区石原3-18

 栗本鋤雲旧居跡
 文政5年(1822)神田に生まれ、奥医師となる。その後、フランス人との交流で国際感覚を身につけ、軍艦奉行、外国奉行を歴任し、フランス式軍隊の伝習などフランスの諸知識を日本に導入した。維新後は新政府に仕えず、この北二葉町四一番の借紅園に移り新聞界で活躍し、初代本所区議会議長もつとめた。明治30年(1897)この地で没す。
 昭和61年(1986)3月 墨田区











所在地 墨田区石原4-22

 松倉米吉旧居跡
 ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、3年間くらした理髪店があった場所(本所区長岡町43番地)でした。
 米吉は明治28年(1895)、新潟県の糸魚川で生まれました。12歳の時に母の再婚先(日毛家)に入るために上京しました。日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。
 米吉は近くのメッキ工場で働き始めますが、16歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短歌に出会います。大正2年(1913)、工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍を始めます。
 米吉は結核等の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労働歌を次々と紡ぎだしていきました。
 大正6年(1917)に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし始めましたが、大正8年(1919)24歳を目前にして没しました。
 平成13年(2001)3月 墨田区教育委員会







所在地 墨田区石原4-36-1 (NTT墨田)

 慰霊塔
関東大震災で殉職した男子職員2名、東京大空襲で殉職した最年少15歳の少女を含む女子交換手28名、談史職員3名を慰霊する碑が昭和33年(1958)に建てられました。
The memorial monument dedicated to two male staff members died at their post of duty in the Great Kanto Earthquake,and 28 female telephone operators including a youngest one of 15 years old and three male staff members died at their post of duty in the Great Tokyo Air Raid,was built in 1958.











  殉職者御芳名
小浜三郎 徳田義雄 石井善治 岩下久子 岩上冨美 長谷川愛子
大滝シメ 渡辺綾子 川島とし子 金子千枝子 横川トシ 竹野下礼子
高石トミ 高士和子 中山ちよ 成田美恵子 内山孝子 上田清子
野崎銀子 山ノ井笑子 鞠子初江 町田春江 松本三郎 増田正子
江口節子 真田あさの 佐藤トメ 坂部和江 春藤来太郎 城山文子
森尻ふみ子 鈴木房子 須藤マサ江








所在地 墨田区石原4-37-2

 カトリック本所教会
本所教会は、1879年(明治12年)4月、東京では築地、神田、浅草に続き4番目に建てられたカトリック教会です。
パリ外国宣教会のフランス人司祭によって、旗本屋敷跡(現在地)に、日本二十六聖人へ捧げる教会として建てられ、創設時からパリ外国宣教会の司祭が着任していたが1905年(明治38年)日露戦争講和条約に反対する暴徒による焼き討ちによって聖堂を失いました。
1906年(明治39年)から日本人司祭が着任・宣教することになったが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災と、1945年(昭和20年)3月10日の太平洋戦争・東京大空襲をうけ3度に渡り聖堂などを焼失しました。
戦後、1951年(昭和26年)6月24日に、現在の聖堂が完成し献堂式が行なわれました。
そして、2010年(平成22年)2月7日には新司祭館・信徒会館が竣工し今日に至っています。
 
 

 カトリック本所教会 保護の聖人  日本二十六聖人
1549年8月15日(天文18年7月22日)、聖フランシスコ・ザビエルは日本にカトリックの教えを伝えるため、鹿児島に上陸した。
1597年2月5日(慶弔元年12月19日)、キリシタン禁止令により長崎・西坂において26人の信者が殉教した。江戸に初めてカトリックの聖堂が建てられたのは1599年(慶長4年)-関ヶ原の戦いの1年前-であった、1613年・慶長の禁止令によって取り壊された。1623年12月4日(元和9年10月13日)には、芝・札の辻で江戸の大殉教がり、以後240年間、徳川幕府によってキリスト教は禁止され、迫害が続けられた。
1862年、26人の殉教者は、ローマ教皇により、日本二十六聖人として聖人に列せられた。カトリック本所教会は、日本二十六聖人を保護の聖人として捧げられた教会である。












所在地 墨田区千歳1~両国

 一之橋
 幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
 万治2年(1659)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
 堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。













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