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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区太平1-24-2

日蓮宗
 平河山 千榮院(千栄院)




 


所在地 墨田区東駒形1-18

 将棋名人 木村義雄誕生の地
 将棋の十四世名人木村義雄は、明治38年(1905)に本所区表町39番地に生まれ、明徳尋常小学校(現本所中学校)を卒業しました。
 子どもの頃から将棋や囲碁が強く、大正5年(1916)に十三世名人関根金次郎の下に入門し、頭角を現わしました。昭和13年(1938)に第一期実力制名人となり、その後4期連続で名人位を防衛しました。昭和22年(1947)に塚田八段に敗れたものの、昭和24年(1949)には再び名人位に就き、通算8期10年の間、その地位を守りました。昭和27年(1952)に大山八段に敗れて以後、公式戦休場を表明し、十四世永世名人を襲位しました。
 また、昭和22年(1947)には日本将棋連盟の初代会長に就任するなど、将棋界の近代化を勧めました。多筆家としても知られ、『将棋大観』など多くの著作を残しています。その功績が認められて、昭和53年(1978)には勲三等旭日中綬章を授与されました。以後も執筆活動などを行っていましたが、昭和61年(1986)11月17日に81歳で亡くなりました。
 墨田区は将棋とのゆかりが深く、東駒形では十一世名人伊藤宗印の弟子で『本所小僧』と呼ばれた相川治三吉が生まれたほか、両国4丁目には師の宗印も屋敷を構えていました。本法寺(横川1丁目)には駒の形をした宗印の墓があります。また、木村義雄の実弟の文俊は駒師として有名で、押上(現在の文花1丁目)などに店を構えました。
 平成21年(2009)3月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区東駒形1・吾妻橋1台東区

 駒形橋



 駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
 江戸の巷説に有名な、

 君はいま 駒形あたり ほととぎす

の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(1923)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和2年(1927)に完成した。
 歌人、正岡子規の和歌にも、

 浅草の林もわかず 暮れそめて
  三日月低し 駒形の上に


というのがあり、当時の景況がしのばれる。
  昭和58年(1983)3月 東京都


 


所在地 墨田区東駒形2-8-1

 篠塚地蔵尊
 この地蔵尊は一條天皇の治世(993-996)、恵心僧都によって像刻されたと伝えられています。当時、北越地方に飢饉が発生していたことから、豊穣・繁栄が祈願され、たちまち飢饉を収束させたといわれます。 
 元弘3年(1333)、新田義貞は北条氏打倒のための兵を挙げましたが、苦戦を強いられました。当時姉ヶ崎に安置されていた地蔵尊の霊験あらたかなことを聞き及んだ義貞は、家臣の篠塚五郎政景に命じて地蔵尊を世良田、(群馬県)に迎え、みごとに鎌倉の北条氏を滅ぼしました。戦勝後、地蔵尊の霊夢に導かれた政景は、本所のこの地に地蔵尊を安置し、堂宇を建立しました。以来、世来田地蔵尊、または篠塚地蔵尊と呼ばれました。
 (『本所区史』には別の来歴が記されています。)
 この地蔵尊に掛けられた布を妊婦の腹に巻くと、いかなる南山もかならず安産にかわる、として人々から厚く信仰されていきました。
 その後、太田道灌がこの地蔵尊に延命山栄壽院の名を与え、徳川家光からも帰依を受けました。以来、安産の地蔵として江戸の人々に知れ渡り、毎月四の日の縁日には多くの参詣者でにぎわいました。大正12年(1923)の関東大震災の難は逃れましたが震災復興計画に基づき、地蔵堂以外の堂宇は現在の足立区竹ノ塚に遷座しました。
 昭和20年(1945)の東京大空襲によって地蔵堂は焼失しましたが、地蔵尊は竹ノ塚に運ばれて無事でした。昭和43年(1968)には旧地の地蔵堂を建て替え、新たに本尊の分体を造立して安置しました。
 平成18年(2006)4月 墨田区教育委員会 地蔵共栄会












所在地 墨田区東駒形3-1-10 (区立本所中学校)

 王貞治記念碑
世界のホームラン王・王貞治氏の出身中学である中学校の校門脇に自筆の記念碑がある。
A monument inscribed in Sadaharu Oh's own hand stands next to the gate of the junior high school where the world home run rekord-holder attended middle school.




 『気力』 王貞治


所在地 墨田区東駒形3-21-3

曹洞宗
 牛嶋山 福厳寺(赤門寺)



 福徳幸地蔵
 


所在地 墨田区立川1-1-1

新義真言宗
 萬徳山 徳上院
 


所在地 墨田区立川1-2-2

新義真言宗
 満徳山 龍光院
 


所在地 墨田区両国1-7-11

 春日野部屋
 師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。
 大正14年(1925)5月、第二十七代横綱・栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。
 昭和34年(1959)10月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和35年(1960)、現役を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営にあたりました。また、九代・春日野は、昭和49年(1974)から昭和63年(1988)まで日本相撲協会理事長を務めました。
 平成2年(1990)1月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方(第四十九代横綱・栃ノ海)が部屋を継承、十代・春日野晃将を襲名しました。
 平成15年(2003)2月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています。
 墨田区













所在地 墨田区両国1-11

 旧両国橋・広小路跡
 旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治2年(1659)12月。明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
 橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
 寛保2年(1742)の調査では1日に2万人以上が往来したとされています。
 墨田区













所在地 墨田区両国1-11

 石尊垢離場跡
 石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿不利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
 出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
 墨田区











所在地 墨田区両国1-11

 赤穂浪士休息の地
 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は、本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。
 赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。
 墨田区












所在地 墨田区両国2-8-10

 回向院正門跡
 回向院の正門は、かつてこの位置にありまsちあ。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
 かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者10万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。
 両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本墨田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。
 墨田区












所在地 墨田区両国3-21-4

 芥川龍之介生育の地
 芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後7ヶ月で、当時本所区小泉町15番地(両国3丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、13歳の時、芥川家の養子となりました。
 芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。
 明治43年(1910)19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校(両国小学校)に入学しました。明治38年(1905)府立第三中学校(両国高等学校)に入学、明治43年(1910)成績優秀ににより無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後、大正2年(1913)東京帝国大学英文科に入学、大正5年(1916)卒業しました。
 大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れました。
 昭和2年(1927)に35歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。
 龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。
 
 

 芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家にあたえらる文学賞。昭和10年(1935)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。












所在地 墨田区両国4-8周辺

 尺振八の共立学舎跡
 尺振八は天保10年(1839)、下総高岡藩の石の子として生まれました。万延元年(1860)22歳の尺はジョン万次郎や英学者西吉十郎らから英語を学び、文久元年(1861)からは福沢諭吉もいた幕府外国方に通弁(通訳)として勤めました。
 尺は幕府の文久3年(1863)の遣欧、慶応3年(1867)の遣米と二度の使節団に随行してじかに西洋文明に接しました。
 とりわけ、アメリカでは雪地、津田仙と共に教育施設も視察して帰国し、やがて諭吉は「慶応義塾」を、尺は明治3年(1870)7月に相生町のこの地に「共立学舎」を開くことになります。
 「共立学舎」は寄宿生英語塾でしたが、英語だけにとどまらず、漢字教育も行った洋漢兼学のバランスのとれた私塾であったために開塾後わずか半年で1000名を越える生徒数を誇りました。
 尺はスペンサーの『教育論』を翻訳した『斯氏教育論』を刊行、自由民権運動の理論書として数多くの人々に愛読され、また未完の『明治英和字典』(死後、英学者永峯秀樹が後を継ぐ)の記述や多くの人材を輩出するなどの業績により、”現代英学の祖父”とも呼ばれ、諭吉と共に近代教育の幕開けを演じましたが、明治19年(1886)11月28日、48歳の若さでこの世を去りました。
 平成8年(1996)3月 墨田区教育委員会








所在地 墨田区両国4-25

 勝海舟生誕の地
 勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年(1853)6月3日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、安政3年(1856)に講武所砲術師範役、安政6年(1859)に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、安政7年(1860)正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。
 平成23年(2011)3月 墨田区教育委員会




















所在地 墨田区両国4-26 (両国小学校)

 芥川龍之介文学碑
 芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。
 芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
 本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治31年(1898)回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌明治32年(1899)同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治38年(1905)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、明治43年(1910)成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正2年(1913)東京大国大学英文科に入学、大正5年(1916)卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。
  
 

 この文学碑はりゅうのすけの代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学ぶ氏の文才を偲ぶものとして両国所学校創立百十五周年の記念事業として、平成2年(1990)10月に建立されたものです。

 芥川龍之介文学碑
「-お前はもう仙人になりたといふ望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)っていました。」
   「杜子春」より



所在地 墨田区両国4-29-5 (本所警察署)

 大震火災相生警察署員殉職の碑
 この碑は大正12年(1923)9月1日の関東大震災においてここ本所一帯をなめつくした猛火の中で避難する人々を身を挺して救出せんとして多くの人々と共に尊い殉職をされた警視庁相生警察署山内署長以下34名の崇高にして警察精神の権化ともいうべき活動を後世に伝えるため昭和8年(1933)9月1日当本所警察署東南角に建立され現在に至るまで幾多署員にその行動の尊さを教え示してきたものであるがこれら殉職者の尊い教訓はただ単に署員の鑑のみとするものでなく広く墨田区民の方々に地震風水害等自然災害の猛威とこれら災害から身を護るにはいつにかかって平素の心構えと普段の準備がいかに大切な事柄であるかということを伝えもって防災意識高揚の一助とすることに役立つならば殉職者の霊にいささかなりとも報ゆることが出来るものとこの位置に移設したものである。
 さらに殉職碑を移設するに当って当本所警察署の前身である両国(旧相生)言問(旧向島)厩橋(旧原庭)太平四警察署の署員にして昭和20年(1945)3月10日この地における空襲において幼い子供を猛火からかばいつつ尊い殉職をされた両国警察署川原巡査ほか13名の戦災による殉職者も合祀するとともにこれら警察署管内に居住され戦災によって亡くなられた方々の霊を慰めこれら殉職殉難された多くの御霊の永く安らかならんことを心から祈るため管内有志の方々および署員の浄財によってここに大震火災相生警察署員殉職之碑を移設しその由来碑を建立したものである。
 昭和51年(1976)9月1日
警視庁本所警察署
大震火災相生警察署員殉職之碑
移設同由来碑建立 有志一同
大震火災相生警察署員殉職之碑
移設同由来碑建立 有志一同



 大震火災相生警察署員殉職碑横には『本所原庭警察署殉職警察官碑』があります。


所在地 墨田区両国4-29-5 (本所警察署)

 本所原庭警察署殉職警察官碑
 この碑は大正12年(1923)の関東大震災の業火の中で積極果敢多くの人々の救出誘導にあたり遂に尊い殉職をされた当時の本所原庭警察署和多警部補以下15名の勲功をたたえ翌年同署員によって現在の墨田区東駒形2丁目1番に所在した同署庁舎前に建立され以来制度改正により厩橋警察署となりさらに四署統合により本所警察署となった今日に至るまで連綿として警察精神の在るべき姿を教え諭してきた。
 このたび旧庁舎が取り壊しの運びとなったことからこの碑をこの地に移しあわせて明治13年(1880)凶悪犯人逮捕にあたって殉職された当時の第六方面第三分署永山巡査をはじめ昭和20年(1945)3月の東京大空襲の際の殉職者など29柱の御霊を合祀しその遺勲を後世に伝えようとの気運が盛りあがり管内有志の方々および署員の浄財によってここに本所原庭警察署殉職警察官碑を移設しその由来碑を建立したものです。
  殉職者使命
永山三月 水谷正助 楢崎善三郎 塗茂宗正 丸子善四郎 福澤一恵
須川榮次郎 小野寺清志 岩元榮 溝永徳雄 山浦功 吉並雄太郎
武次権太夫 小林庀伝治 刑部安治 川原一男 小野里幸三郎 白峯武雄
榊原義夫 武井輝夫 佐原健次 高島四六 田中靖 花上市太郎
寺島久俊 吉田良平 野澤昭三郎 石井孝治 小山寅之助
 昭和59年(1984)11月20日
 警視庁本所警察署 有志一同
 警視庁本所警察署管内 有志一同



 本所原庭警察署殉職警察官碑横には『大震火災相生警察署員殉職の碑』があります。


所在地 墨田区両国4-30-4

 伊藤宗印屋敷跡
 明治12年(1879)に十一世微塵を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家、大橋家分家、伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。
 三家とも初めは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。
 ぶらり両国街かど展実行委員会



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