東京都墨田区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園) 山上臣憶良秋の七草の歌碑 秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数うれば 七種の花 芽の花 乎花葛花 嬰麦の花 姫部志 また藤袴 朝顔の花 董堂堂以芸書 窪世祥鐫 所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園) 初代河竹新七追善しのぶ塚の碑 隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。 明治13年(1880)3月 所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園) 東京市碑 向島百花園来由の碑 昭和14年(1939)7月建之 名勝向島百花園ハ文化元年(1804)佐原鞠塢ノ開創スル所ニシテ風流文雅・名所トシテ聞ユルコト久シ鞠塢ハ仙臺ノ人江戸ニ出テテ骨董商ヲ営ミ北野屋平兵衛ト称ス性園圃ノ枝ニ通シ文墨ノ才ニ富メリ晩年産ヲ治メ寺島村多賀氏ノ舊地三千餘坪ヲ購ヒテ閑居スルヤ自ラ鋤鍬ノ労ヲ執リ文苑ノ名士ト胥諮リテ梅樹竝ニ四季百花ノ粹ヲ蒐メ詩韻豊力ナル花圃トナス春夏秋冬花開カサルナク東西南北客争ヒ来リ花屋敷百花園ノ名普ク世ニ布クニ至レリ然ルニ明治以来屢出水ノ厄ニ羅リ園景遂ニ荒廃ニ瀕スルヤ故小倉常吉氏ハ深ク之ヲ惜ミ大正ノ初資ヲ投シテ園地ヲ収メ舊景ヲ保存シ他日公開ノ意図ヲ有セラレシヤ不幸易簀セラレタルヲ以テ未亡人小倉乃■刀自ハ其意思ヲ継承シ昭和13年(1938)10月園地一切ヲ挙げて東京市ニ寄附セラレタリ 本市ハ寄贈者ノ芳志ヲ體スルト共ニ曩ニ昭和8年(1933)史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ指定セラレタル本園保存ノ趣旨ニ遵ヒ鋭意之カ復讐ヲ図り今ヤ公開ヲ見ルニ際シ茲ニ其来由ヲ記シ以テ後世ニ傳フ 東京市 所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園) きょうげん塚 二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を跨えて明治25年(1892)の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。 明治27年(1894)11月 |
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永山
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