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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区太平1-26-16

日蓮宗
  平河山 本住院 法恩寺


 

  日蓮宗平河山法恩寺縁起

開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。太田道灌公長禄2年(1458)江戸城築城に当り丑虎の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時この附近を平河村と称したによるものである。当山には秀吉家康共に小憩され、又、朱印地も与えられた。



家康江戸城に入り、城内拡大に当って当山は神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄8年(1965)現在の地に映されたのである。当時塔中20ヶ寺、末寺11ヶ寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災(1923)、昭和20年(1945)3月の戦災に遭遇するも檀信徒並地元の外護により再建され昭和29年(1954)10月現在の本堂落成をみたのである。経石塔(三重塔)は昭和7年(1932)宗祖650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当時新様式鐘楼として名高いものである。
 奉納 横川二 岩田鉄工



日蓮宗 平河山 山内寺院案内
 法恩寺 千栄院 陽運院 法泉院 善行院

〔沿革〕
法恩院 開山 本住院日住上人 開基 太田道灌公

太田道灌公は長禄2年(1458)凡そ540年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城内鎮護の祈願所として、当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。
 時移り、徳川家康公江戸幕府を開くにあたり、慶長10年(1605)神田柳原へ移転。その後、慶安2年(1649)谷中清水町へ移り、元禄8年(1695)幕府の命により、現在地に移された。
 現在塔中は四ヶ寺であるが、元禄当時は、20ヶ寺を擁したと伝えられる。
 当地を太平町と称するのは、太田道灌公の太及び平河山の平を合わせたものである。
 大正大震災(1923)、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭遇、ニ度焼失、昭和29年(1954)10月現在の堂宇が建立された。
  維時 平成10年(1998)3月彼岸の佳日

 境内には『太田道灌公墓所』、『道灌公記念碑』、『鐘楼三重塔』、『日蓮聖人像』、『平川清水稲荷』、『花塚』があります。



    Hoonji Temple
The history of Hoonji Temple started when Ota Dokan,who constructed Edo Castle,built it in Edo Hirakawa (Chiyoda Ward) in 1458.The temple was opened by Saint Nichiju under the name of Honju-in.It was Dokan's grandson Sukeaka who changed the name to the current Hoonji.After several relocations,the temple was finally transferred to the current site in 1688.
 池波正太郎 鬼平犯科帳「尻毛の長右衛門」の舞台
引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。彼方に法恩寺の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花落本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、表門を入った両側には塔中が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花が、いまや咲きひらこうとしている。(略)
いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみをまっていた。
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所在地 墨田区太平1-26-16 (法恩寺)

   花塚の記
 花を愛する心は 人生をいつくしむ心と同じである
 四季おりおりの花は 社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は咲かない 日本人は花にさまざまな思いを託してきた 神を祭り仏に供えることから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである 
 古人も花塚を築き 花供養を営んだが昭和37年(1962)9月中村理運氏の発願により花の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして安芸の彼岸には花供養が営まれている 敬虔な人々の心は また美しい日本の花である
 昭和46年(1971)9月


所在地 墨田区太平1-26-16 (法恩寺)

  太田道灌家供養塔



 太田道灌公は室町時代の武将で、永享4年(1432)関東官領扇ヶ谷上杉氏の執事姿清の子として相模に生まれました。歌人として、万里集九との交遊も知られています。幼名を鶴千代麿、源六郎と称し、成人してからは、持資(もちすけ)、資長(つけなが)と改め、備中守正五位下までのぼり、剃髪して道灌と号しました。道灌は、扇ヶ谷上杉定正に仕え、文武両道を修め、康正2年(1456)江戸城を築きここを居城としました。彼は、築城にかけても名手で、河越、岩槻の二城も築きました。また、足軽の用い方にもすぐれていたといわれます。文明18年(1486)主君定正は、太田道灌の名声をねたんだ他の家臣たちにそそのおかされて、相模糟屋の自邸に太田道灌を誘い出し、謀殺しました。享年55歳でした。
 この法恩寺はもと江戸平河町にあり、太田道灌が江戸築城のとき建立したものといわれ、太田道灌とゆかりが深く、子孫によって供養塔が築かれました。
 平成18年3月  墨田区教育委員会


 


所在地 墨田区太平1-26-16 (法恩寺)

   平川清水稲荷縁起
当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云い太田道灌公も是を愛でゝ

 武蔵野の 
  小川の清水絶えやらで
   岸のねせりを洗いことすれ


と詠まれている 当時のその小川の畔本住院(当時の旧称)の側に稲荷の詞が祭られていて 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内に其の碑柱が伝わって由緒を物語っている


所在地 墨田区太平1-24-2

日蓮宗
 平河山 千榮院(千栄院)




 


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