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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区東向島1-7-11 

  露伴児童遊園
 ここは文豪幸田露伴が明治41年(1098)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治26年(1083)冬、この寺島町かいわいに来住しそれから約30年最も力の溢れた磁器をこの地にすごし、数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、旧道、相撲などしてよく庭で遊んだそうです。
 このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。
 昭和39年(1964)3月建立  墨田区



 園内には『幸田露伴文学碑』があります。
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所在地 墨田区東向島1-7-11 (露伴児童遊園)

  幸田露伴文学碑

 世おのづから數といふもの有りや。
有りといへば有るが如く、
無しと為せば無きにも似たり。
洪水天に滔るも、禹の功これを治め、
大旱地を焦せども、湯の徳これを濟へば、

數有るが如くにして、而も數無きが如し。
   「運命」より


所在地 墨田区東向島3-2-1

  子育地蔵堂
 この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。



 この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。

 

 その後、天保3年(1832)4月に11代将軍徳川家斉が鷹狩りに来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
 御堂前の坂は、明治44年(1911)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。



 昭和8年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立100年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。
 平成23年(2011)8月 墨田区教育委員会

 


所在地 墨田区東向島3-23-17

  蓮花寺




 蓮華寺境内には『道標』があります。


                                                  地蔵堂


所在地 墨田区東向島3-23-17 (蓮花寺)

墨田区登録文化財
  道標 二基
     


 「女人済度御自筆 弘法大師」の道標
 左右側面に「大しみち(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。片方は蓮花寺で、もう片方の「大しみち」は西新井大師を指したと考えられます。文化15年(1818)の建立です。台石に「と組」と記されているので、江戸火消しが建てたのでしょう。

 「石除弘法大師」の道標
 右側側面に「西 白ひけ はしはみち(白鬚 橋場道)」とあります。文面から、門前に建てられていたものと考えられます。文政5年(1822)の建立です。

 ともに蓮花寺とはゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として、川崎、西新井の大師と並んで江戸三大師の1つとして、栄えていました。石除けの護符をいただきにくる大師参りの人々のために建てられた道標に違いありません。
 平成8年(1996)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区東向島4-28-16 (東武博物館)

  1720型デラックスロマンスカー
1720系は昭和35年(1960)に就役し、浅草~東武日光・鬼怒川方面へと走った特急電車です。当時の車両技術の粋を集めたオール電動車6両固定編成で、昭和48年(1973)までに7編成作られました。ジュークボックス付きのサロン室を備えるデラックス車両として長い間東武鉄道の看板特急でしたが、100系特急スペーシアにその女王の座をゆずる平成3年(1991)引退しました。
               東武博物館


所在地 墨田区東向島4-28-16 (東武博物館)

  日光軌道線203

日光軌道線は明治43年(1910)、日光精銅所の資材輸送を主目的に敷設されました。昭和22年(1947)に当社と合併しましたが、その後、観光客の増加にこたえ、開業以来使用していた旧形車を廃し、昭和28年(1953)・昭和29年(1954)に大形車を導入しました。この車両は昭和29年(1954)に汽車会社で造られた2車体3台車連接式の珍しい電車です。日光軌道線は、昭和43年(1968)に姿を消しました。
 全長:18,550mm
 幅  :2,200mm
 高さ :3,702mm
               東武博物館


所在地 墨田区東向島3-5-2

 白鬚神社

 祭神 
猿田彦大神
天照大御神 高皇産霊神 神皇産霊神
大宮能売神 豊由気大神 健御名方神



 天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまっつたと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年(1815)に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治40年(1907)には氏子内の諏訪神社を合祀した。
 
Ancient books describe Shirahige-jinja Shrine's presiding deity as having been instrumental in opening up the country's territories by indicating  the proper geographical orientation for various endeavors.The shrine is also dedicated to Juroujin,one of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.




  隅田川七福神 寿老人

 当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでてく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。




 白鬚神社境内には『鷲津穀堂碑』、『墨多三絶の碑』、『北島玄二「うつせみの」の歌碑(黒人塚)』、『亡友「蒼山衣剱之蔵」の碑』、『春秋庵白雄「人こいし」の句碑』、『空谷等周先生衣嘖之蔵の碑』、『天広丸「くむ酒は」の狂歌碑』、『四世今日庵「こころほど」の句碑』、『寺島ナスのレリーフ』、『力石』があります。


所在地 墨田区東向島3-5-2 (白鬚神社)

  寺島ナス
 かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688~1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。
 享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土寄稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。
 農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。
 平成9年度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業

    THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
                Terajima Nasu (Egg plant)
 Terajima village around this Shirahige Shrine was paddy rice areas in the years 1688-1704.Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as "Terajima Nasu".Farmers shipped their products by boats to the markets of Senju,Honjo-Yotsume and Kanda,etc.


所在地 墨田区東向島3-5-2 (白鬚神社)

  「墨多三絶すみださんぜつ」の碑

 墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶(←絶の古字)」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政5年(1822)のことです。
 なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
 この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
 維舟渡口歩汀名沙来飲祀前売酒家一
 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
 欲管繁華事閑睡落花流水中
 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
 鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
 上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行
  平成18年(2006)12月 墨田区


所在地 墨田区東向島3-5-2 (白鬚神社)

  鷲津毅堂碑
 鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政8年(1825)尾張に生まれました。
 通称を毅堂または蘇州と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
 20歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永6年(1853)久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868)調停より権弁事を任ぜられ、明治2年(1869)大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治15年(1882)司法権大書記官となりますが、同年、10月5日、58歳で歿しました。
 なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
 本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。
 平成18年(2006)3月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区東向島3-18-3

  向島百花園
 
 本園は、江戸時代文化2年(1805)頃、佐原鞠塢さはらきくうという粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。



 往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化2年(1845)には、12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
 その後、時代の変遷と共に、小倉家に所有権が移り昭和8年(1933)2月、国の「名勝」に指定され、時至って小倉氏の遺志(名勝永久保存のため)により、昭和13年(1938)10月に東京市に寄付されました。百花園を受領した東京市は、衰退著しかった庭園を復旧し、昭和14年(1939)7月8日制限公開にしています。
 この後、戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、多くの方々の努力のもと昭和24年(1949)に再び復元。その後、荒廃を余儀なくされましたが初代鞠塢の「群芳暦」を基本に植栽し、昭和53年(1978)10月文化財保護法により「名勝及史跡」の指定を受け、今日に至っています。



 この庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑と園全体の雰囲気が、江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また、初代鞠塢の頃から、「詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草をはじめ、四季それぞれの植物が植え込まれ、野趣豊かな庭園となっています。
 江戸の文人墨客をはじめ庶民に愛され、今日まで受け継がれてきた、貴重な財産がこの「向島百花園」と言えます。



This Edo-era flower garden features primarily mountein flowers and wildflowers presented in an elegant and culturally sophisticated manner.It is also home to a number of memorial monuments,including one inscribed with a haiku by Bashou and another with a poem by Yamanoue-no-Okura.



 向島百花園内には『東京市碑』、『日本橋石柱』、『飯島光峨翁之碑銘碑』、『茶筅塚と柘植黙翁句碑』、『大窪詩仏画竹碑』、『其角堂永機句碑』、『芭蕉「こんにゃく」の句碑』、『芭蕉「春もやや~」の句碑』、『雪中庵梅年句碑』、『杉谷雪樵芦雁画碑』、『初代河竹新七追善しのぶ塚の碑』、『福禄寿尊堂』、『北元居士句碑』、『寶屋月彦句碑』、『鶴久子歌碑』、『矢田蕙哉翁句碑』、『螺舎秀民句碑』、『亀田鵬斎墨沱梅荘記碑』、『金令舎道彦句碑』、『月岡芳年翁之碑』、『七十二峰庵十湖句碑』、『芝金顕彰碑』、『千寿庵益賀句碑』、『二代河竹新七追善狂言塚の碑』、『ニ神石碑』、『井上和紫句碑』、『最中堂秋耳句碑』、『山上臣憶良秋の七草の歌碑』があります。


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

 二神石碑

  くくのちの神
  かやのひめの神

この二柱の神は古事記上巻にある伊邪那岐伊邪那美二神が生んだ神話の中に出てくる神で久久能智神は木の神、鹿屋野比売神は野の神である
 古事記上巻より


所在地 墨田区東向島3-18-3 (向島百花園)

  金令舎道彦句碑

今日の月 さても惜しまぬ 光かな               
               美知彦


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