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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区向島1-3 (隅田公園)

  「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑
 この碑の建つ場所は、明治年間に幾度も明治天皇のレガッタ視察のために玉座をしつらえた場所です。
 現在は堤防が整備されて隅田川の様子があまり見えませんが、かつては土で造った堤防に桜が植えられ、たいへん風情のある光景でした。そうした場で、明治15年(1882)11月21日、明治26年(1893)6月3日、明治27年(1894)4月2日、明治29年(1896)12月18日の4度にわたりレガッタを展覧したのです。
 隅田川のレガッタの歴史のひとつを物語るこの石碑は昭和16年(1941)11月に建碑されました。
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所在地 墨田区向島1-3 (隅田公園)

  藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
 江戸末期の尊皇攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正気歌」の刻まれた漢詩碑です。
 弘化2年(1845)11月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
 「天地正大の気、悴然として神州に鐘まる。秀でては富士の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ・・・(下略)」と、五言七十四句のナカに天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
 中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
 東湖は、文化3年(1806)水戸に生まれ、彰考館編修として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政2年(1855)の大地震のときに、50歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
 この碑は、昭和19年(1944)6月に東湖会が建立しました。
 平成20年(2008)3月 墨田区教育委員会


Touko Fujita wrote the "Song of Sound Spirit" in order to raise morale among his fellow royalists while confined here to the suburban residence of the daimyo of the Mito domain during  the last days of the Tokugawa shogunate.


所在地 墨田区向島1-3 (隅田公園)

  富田木歩終焉の地
 富田木歩とみたもっぽは本名を一といい、明治30年(1897)に墨田区向島2丁目の鰻屋の次男に生まれました。2歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろはカルタ等で遊びながら文字を覚えました。
 たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、2人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌『ホトトギス』を知り、俳句に惹かれます。
 やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。彼を理解し援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもできました。しかし、妹も弟も肺患で死に彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
   かそけくも 咽喉(うど)鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
 木歩は関東大震災にあり、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。26歳でした。
 平成元年(1989)3月 墨田区


所在地 墨田区向島1-4-5

  牛嶋神社(牛島神社)







 牛嶋神社境内には『烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑』、『撫牛』、『力石』、『浮島の牛牧レリーフ』があります。


所在地 墨田区向島1-4-5 (牛嶋神社)

墨田区登録文化財
  烏亭焉馬「いそかはすは」の狂歌碑

いそかすは 濡れまし物と 夕立の 
   あとよりはるゝ 堪忍の虹
」 
              談洲楼烏亭焉馬

 この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生れ、本所相生町5丁目(現 緑1丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談州楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
  元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
 文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
 (現在は寺・墓 共に江戸川区平井に移転)。
 平成7年(1995)3月  墨田区


所在地 墨田区向島1-4-5 (牛嶋神社)

  浮島の牛牧
 文武天皇もんむてんのう(701~704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。
 時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。
 明治19年(1886)の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
 平成9年度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業

    THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
                Ukishima Dairy Farm
 In the era of the Emperor Monmu(701-704),national cattle farms were said to have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is from Mukojima toward Ryogoku at the present.
 Since 701,as many as 39 national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan.Here,in Honjo,was also one of the national farms called "Ukishima Dairy Farm ".
 With the introduction of westerncivilization in the late Edo Era and the resulting increase in demand for dairy products,there were at the peak time a number of daity farms in Honjo area at the beginningof Meiji Era.Herds of cattie were lazily grazing over the pastures around this shrine.


所在地 墨田区向島1-4-5 (牛嶋神社)

墨田区登録文化財
  撫牛



 撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
 この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
 明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
 平成17年(2005)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区向島2-3-5

  すみだ郷土文化資料館
隅田川を中心とした墨田区の歴史・伝統文化を紹介し、その遺産を継承していくことを目的とした「ふるさと博物館」。保存資料はもとより、模型やマルチメディアなどを駆使しさまざまな趣向をこらして紹介されています。
This homutown museum was established to introduce visitors to the history and traditional culture of SUmida Ward with a focus on the Sumida-gawa River,thereby helping ensure that the area's rich legacy will be passed on to future generations. Visitors can enjoy a range of preserved historic matrials as well as elaborate exhibits including models and multimedia displays.


所在地 墨田区向島4-9-13

  秋葉神社
祭神 火産霊命(千栄秋葉大権現)
    宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)
 昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応2年(1289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者葉栄が神感を得てこの社に詣り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田與右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主本多正永の報賽にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願時を興して別当となった。
 爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年(1868)神佛分離令の施行により、秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正12年(1923)の震災に社殿倒壊し、昭和5年(1930)復興したが、昭和20年(1945)戦災にかかり昭和41年(1966)氏子崇敬者の奉賽により現社殿を再建した。
   主な祭事
歳旦祭     1月1日 
祈年祭     3月3日
例祭       9月中旬
鎮火大祭  11月17日18日
新嘗祭   11月23日
縁日      毎月3日18日
 昭和61年(1986)10月18日建之  社務所



 秋葉神社境内には『石燈籠』があります。


所在地 墨田区向島4-9-13 (秋葉神社)

墨田区登録文化財
  石燈籠



 本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の籠臣柳沢吉保の子です。
 この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠挙が宝永6年(1709)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦8年(1718)に奉献しました。
 鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(1704)に奉献したものです。なお、この一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。
 当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれ、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。
 平成5年(1993)3月 墨田区


所在地 墨田区向島・台東区

  隅田公園
 隅田川の両岸、墨田区と台東区にまたがる臨水公園で、都内有数の桜の名所。

The Sumida City side of this riverside park,shich spans the Sumida-gawa River so that it is located in both Sumida City and Taitou City,is one of Tokyo's best-known locations for cherry blossom viewing.



  艇庫とレガッタ レガッタによる隅田川の賑わい
 レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。 
 1883年(明治16年)日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内のプール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、1967年(昭和42年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。
 近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。

  Regatta was the most popular sport among students in Meiji era and Taisyo era.The birthplace in Japan is Sumida River.
 After the first regatta race in Japan took place in Mukojima in 1883 (Meiji 16),it began to be played frequently among schools and companies.And Sumida River became the center of regatta race.Since a number River boathouses were built along the river,people called the place "Village of boathouse".(Many of those boathouses located between present Metropolitan Expressway route 6 Mukojima-on-ramp and Indoor Swimming Pool.) Once regatta race took place,a crowd of people gathered and filled the riverside.However,the last voathouse (Hitotsubashi-University's boathouse)  has moved out in 1967 (Showa 42) because of water pollution,boathouses no longer exist along the river since then.
 In recent years,regatta race in Sumida River revives as water is purified.Regatta is going to regain  the former life.



 隅田公園内には『野口雨情文学碑』、『墨堤植桜の碑』、『藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑』、『「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑』、『隅田公園少年野球場』、『富田木歩終焉の地』、『竹屋の渡し跡』、『花の碑』、『明治天皇御製碑』、『秋桜子句碑』、『山の宿の渡し跡』があります。


所在地 墨田区向島5-1 (隅田公園)

   墨堤植桜の碑
 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が100本の桜を、享保11年(1726)には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原■塢きくう、朝川黙翁、中山ト■が150本、天保2年(1831)に阪田三七郎が200余株の桜を植えました。弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治20年(1887)に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年(1896)に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
 平成2年(1990)3月 墨田区


  墨堤植桜之碑と桜勧進  住民が育てた墨堤の桜
 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
 墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
 墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

 Bokutei estaablished a reputation as a good place of cherry blossom biewing in Edo era.Those cherry trees had planted only around Suijin shrine (current Sumidagawa shrine).From 1880s,volunteers in local village planted many cherry trees along the river to the South.
 A row of cherry trees in Bokutei was gradually extended to "Chomei-ji temple","Mimeguri shrine",and it reached "Makura Bridge" in about 1880.During the time,there was also a conation for planting cherry trees called "Sakura-Kanjin" promoted by those volunteers.
 It is curved on "Shokuou-no-Hi (momument)" that cherry trees in Bokutei were loved by local people.



所在地 墨田区向島5-1 (隅田公園)

  野口雨情文学碑

都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年(1933)、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
 東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。
 昭和63年(1988)10月9日 墨田区


所在地 墨田区向島5-5-21 (隅田公園)

  隅田公園少年野球場
 この少年野球場は、昭和24年(1949)戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
 以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。
 昭和61年(1986)3月 墨田区教育委員会

 


所在地 墨田区向島・東向島

 
向島の地名は江戸に入ってから、浅草側から隅田川をへだてて牛島・寺島などを総称してよんだもんである。
 向島の地域には、牛島神社、常泉寺、三囲神社弘福寺、長命寺、秋葉神社などの名所旧跡並びに文化遺産が多い。とりわけ江戸時代末の文化文政の頃から文人墨客の好むところとなり、寺社の境内にはさまざまなたたずまいの句碑・歌碑類があり、あわせて百を超える。
 向島百花園には、文化元年(1804)に町人佐原鞠塢が、武家屋敷の跡地に開いたものである。園内には多数の梅の木が植えられ、詩歌にゆかりの深い草木類が多い。園の名称は、梅は百花に先がけて咲くの意から百花園といわれた。


所在地 墨田区向島2-5-17

 三囲神社

   由緒
1、東京市本所區向島2丁目7番地鎮座
1、村社 三囲神社
1、御祭神 宇迦能魂命
1、御祭日 例祭4月9日
三井総元方 三井銀行 三井物産株式会社 三井鉱山株式会社 株式会社三越
右総元方始め各株式会社交替に正五九の小祭を受持ち昔の例の儘に祭祀を執り行ふ



当社の草創は實に壹千餘年前の事にして共間廔々の變遷あり 元亀年間火災に罹り社殿を再建し慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南二丁の現地に移さる
霊験妙なるが中にも元禄6年(1693)6月の大旱魃の時俳聖晋其角献句雨乞によりて霊験立ちどころに顕れ翌日大雨あり之より御神徳天下に普く特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三囲大神の信仰厚く当家の守護神と仰ぎ享保元年(1716)三井高治三井高久三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧げ奉り又享保12年(1727)5月には従二位卜部潮臣■敬に請ひて更に霊璽を当社に遷七鎮め奉り田地を捧け社地を拡張し神殿瑞垣を改築せり
爾来三百餘年子孫代々祖先の志を継ぎ敬神以て今日に至る迄昔の随々に当社の維持経営に努め又三囲講を創設して祭祀に力を致す
境内末社多く中にも大國神恵比寿神は隅田川七福神の一つとして其名高く額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め又樹間に黙綴せる諸名家の碑石は其の数多く興趣掬すべし
 昭和17年(1942)1月25日

 

                         三囲神社本社(墨田区登録文化財)

Haiku poet Takarai KIkaku is said to have dedicated a reading of his poem hire as an offering during the Edo drought of 1693,triggering a great rain the following day.The shrine's precincts include a haiku-inscribed statue memorializing this event.The shrine is dedicated to Daikokuten (the god of wealth,farmers,agriculture,rice,and the kitchen) and Ebisu (the god of fishermen,good luck,and workingmen),two of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.


 三囲神社
境内には『三囲のライオン像』、『三角石鳥居』、『三囲神社最古の紀年銘』、『朱楽菅江辞世狂歌碑(執着の~)』、『隅田川七福神 三囲神社別殿(大國神 恵比寿神)』、『富田木歩の句碑(夢に見れば)』、『一菴小林先生之碑』、『石造神狐』、『秦蒙将軍之象の碑』、『其角惜春の句碑』、『野崎車応追悼碑』、『本松斎一得翁之碑』、『一勇齋歌川先生墓表の碑』、『二世本松齋一得君之碑』、『中山善吉の碑』、『菱湖先生の碑』、『日比翁助 石垣の歌碑』、『木遺音頭の碑』、『老翁老嫗の石像』、『宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)』があります。


 Mimeguri-jinja Shrine
 (Sumidagawa-shichifukujin)













所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  三囲のライオン像 
 三越の旧池袋店から移した三越のシンボルであるライオン像は、大正3年(1914)当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み、三越本店に一対のライオン像を据えたのにはじまる。戦後、本店の像をもとに各視点に設置されているライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむらいおんである。なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は、大いに発展し明治29年(1896)三越呉服店につながる。


 

 写真は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壷の台石に彫られた。明治29年(1896)から昭和の初期まで実際につかわれていた。


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  三囲神社最古の紀年銘
 藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永3年(1707)に奉納した当神社で最も古い年代を示す石造物


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

隅田七福神 大國神 恵比寿神

 三囲神社の別殿には、古くから大國、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人びとによって師事された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。
 大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大國を同じ音の大黒とも書く。

 


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  三角石鳥居
 三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある。


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  朱楽菅江あけらかんこう辞世狂歌碑

 執着の心や裟婆に残るらむ 
   よしのの桜さらしなの月    朱楽管江

建立の年代は書かれていないが文化文政の頃にはすでに有名な石碑であった


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  宗因白露の句碑
 「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化9年(1812)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。
 宗因は慶長10年(1605)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師、俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙酒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。
 平成18年(2006)12月 墨田区教育委員会


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