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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区横川1-15

 このあたりを含む本所一帯は、江戸時代の明暦3年(1657)の大火(振袖火事)の後に、江戸市街を拡張するために開拓が進められ、元禄年間(1688~1703)頃になると、周辺に武家屋敷や寺院などが建てられるようになりました。室町時代に江戸を拠点とした武将太田道灌の墓がある法恩寺も、元禄2年(1689)に現在地(太平1丁目)に移転してきました。
 横川1丁目遺跡の場所は、江戸時代の絵図によると、太田道灌の一族である大竹の抱屋敷があったとされています。また、明治時代には、ゴム製品材やエボナイト、赤Mで知られる軟式テニスボールなどを製造し、日本に於ける近代ゴム工業の礎となった三田土護謨製造合名会社がありました。
 平成9年(1997)、東京都住宅供給公社の都民住宅建設工事に■■■■■旗本大竹の抱屋敷に関わる遺跡が確認され、墨田区教育委員会の指導の下に、横川一丁目遺跡調査会が発掘調査を実施しました。
 調査の結果、本所開拓のときの盛土層や本所上水の水路とみられる大溝、太田家抱屋敷の庭園の池や建物、陶磁器や瓦、木製品などの江戸時代の遺構・遺物が発見されました。
 また、明治時代のものとして「三田土」の墨書や焼印のある木札や板、ゴム製品が出土し、三田土護謨製造合名会社の存在を裏付けています。
 このように、横川一丁目遺跡は、この場所の歴史を物語る貴重な埋蔵文化財の包蔵地となっています。
 平成11年(1999)2月 三田土会 墨田区教育委員会
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所在地 墨田区横川1-3-20

浄土宗
 霊性院



 霊性院には『子育厄除開運地蔵尊』があります。


所在地 墨田区横川1-3-20 (霊性院)

 子育厄除開運地蔵尊
夜店通り縁日の地蔵尊は霊性院境内安置の子育厄除開運地蔵尊で今を去る257年(正徳年間)徳川年間当代三世松誉代当院境内(元太平町1丁目150番地)に井戸を開穿するに至り三丈余りを堀下しに忽ち渡々なる清泉と共に出現せられたる霊像にして当時恰も本所深川一帯に亘り悪疫大に流行し為に児童の斃しも其の致を知らざる有様なりしに一度此の霊像世に出現せらるゝや悪疫は速やかに退散し普く其の霊益を蒙り悉く本復になりしと云ふ爾来此の霊像を子育厄除開運地蔵尊と称し其の名遠近に高く日々奉賽祈願する者甚だ多かりしと云ふ
斯くして大正12年(1923)震災前には毎月14、24日両日は当院境内は忽論元太平町老の98番地附近に迄縁日出店有り賽者人多かりしも震災と同事に中絶の止むなきに至り然るに区画整理も完了し道路等も完成せしに付此の際該縁日を復興し町内繁栄無産の救済併て信仰鼓吹民心善尊に資しも又々戦災に遇い灰燼に終りし処昭和28年(1953)相互会の会員全員の尽力に依り再び諸民の前に出現して昔日の如く日夜とはず賽者人少からず
 霊性院第三十一世性譽種山遺稿
 平成7年(1995)8月 地蔵堂新築記念
 奉納者 岡本八十二 田中市右衛門


 


所在地 墨田区横川1-3-22

浄土宗
 常在山 霊山寺






 


所在地 墨田区横川1-12-12

日蓮宗
 妙栄山 本法寺

 本法寺には『狩野元信墓』があります。


所在地 墨田区横川1-12-12 (本法寺)

 狩野元信墓
 本法寺は、文禄4年(1595)、日慶が神田に創建し、慶安2年(1649)谷中に移り、さらに元禄2年(1689)に本所の現在地に移転しました。
 狩野元信は室町時代の画家です。文明8年(1476)、狩野派の始祖狩野正信の長男として京都に生まれました。のちに将軍義晴の命により剃髪して法眼となり、永仙と号しました。父の跡を継いで室町幕府の御用絵師となり、狩野派発展の基礎を確立しました。
 元信は父の画風を受け継ぎながら漢画の既成諸様式を修め整理融合し、大和絵の手法をくわえて装飾性豊かな障壁画の様式を大成しました。代表作には大徳寺大仙院客殿襖絵や妙心寺霊雲院旧方丈襖絵などがあります。永禄3年(1559)10月16日、84歳で没しました。
 この墓は昭和30年(1955)10月狩野文氏によって再建されたものです。
 平成16年(2004)3月 墨田区教育委員会











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