忍者ブログ
東京都墨田区の歴史
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 墨田区吾妻橋1-23

 この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移り変わり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
 文政5年(1822)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
 その後、明治33年(1900)札幌麦酒東京工場がここに設置され、明治39年(1906)には第二本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年(1920)の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
 平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。
 平成3年(1991)3月  墨田区
PR


所在地 墨田区吾妻橋1-23-20 (墨田区役所)

 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
 海舟生誕180年
 平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇



右手を突き出した海舟の像は、新しい日本を思い描き、アメリカを目指そうとする姿を表現。
This statue of Kaishuu Katsu with his right arm extended depicts the statesman envisioning a new Japan as he prepares to depart for the United States. 



  勝海舟略年表
1823 文政6
 江戸本所亀沢町の男谷邸(現両国4丁目)に生れる。父は勝小吉、母は信子。通称麟太郎。名は義邦。
1829 文政12
 12代将軍家慶公の五男初之丞に召されたという(9歳または12歳まで)。
1837 天保9
 父小吉隠居し(号夢酔)、家督を相続。
 島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始める。夜は牛島神社(王子権現)で寒稽古。
1841 天保12
 牛島の弘福寺にて、座禅を修める。
1845 弘化2
 岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚。
 永井青崖に蘭学を学ぶ。
1846 弘化3
 本所から赤坂田町に転居。
1848 嘉永1
 日蘭辞書「ヅーフハルマ」の筆写(2部)終了。
1850 嘉永3
 父小吉死去(49歳)。
 赤坂田町に私塾を開き蘭学と静養兵学を教授。
1852 嘉永5
 諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲を鋳造。
1853 嘉永6
 「海防意見書」を提出。
1855 安政2
 大久保一翁の推挙で、藩書翻訳勤務を命じられる。
 長崎海軍伝習を命じられる。
 小普請組から小十人組となる。
 9月1日長崎に向かう(10月20日長崎着)。
1856 安政3
 講武所砲術師範役となる。
 海軍伝習の功により大番に番替えとなる。
1858 安政5
 咸臨丸で下関・五島・対馬・鹿児島などを巡航。
 鹿児島で島津斉彬に謁する。
1859 安政6
 長崎の伝習を終え、江戸帰府。
 赤坂元氷川町に転居。
 アメリカ派遣を命じられる。
1860 万延元
 咸臨丸で品川沖を就航、アメリカに向かう。
 サンフランシスコ到着。
 サンフランシスコを出向、帰国の途につく。
 浦賀に帰港。
 江戸に帰る。
 藩書調書頭取助となる。
1861 文久元
 講武所砲術師範役となる。
1862 文久2
 軍艦操練所頭取となる。
 軍艦奉行並になる。
 坂本龍馬ほか9名海舟の門下生となる。
1863 文久3
 将軍家茂の摂津湾巡覧を案内、家茂から直接神戸海軍操練所設立の許可を得る。
 12月28日再上洛する将軍家茂を奉じて海路で大阪へ向かう(元治元年正月8日大阪着)。
1864 元治元
 2月5日一橋慶喜より、長崎派遣を命じられる(4月12日大阪帰還)。
 軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。
 神戸海軍操練所設置布達。
 11月10日軍艦奉行罷免、寄合となる。(慶応元年〔1865〕3月9日神戸海軍操練所廃止)。
1866 慶応2
 軍艦奉行再勤を命じられる。
 一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受ける。
 安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談、休戦を協定。
1867 慶応3
 海軍伝習掛を命じられる。
1868 慶応4
 海軍奉行並となる。
 陸軍総裁となる。
 陸軍総裁を免じ、軍事取扱を命じられる。
 高輪の薩摩藩邸にて西郷隆盛と会見。
 田町にて再び西郷と会見、江戸無血開城を決める。
 江戸城引き渡し終了。
1868 明治元
 改元
 10月11日蒸気船で東京を離れ駿府に向かう(12日着)。
1869 明治2
 安房守を安芳と改める。のちに安芳を本名とする。
 7月18日外務大丞に任じられる(8月13日辞退免職)。
 11月23日兵部大丞に任じられる(翌年6月12日辞退免職)。
1870 明治3 
 母信子、静岡で没。
1872 明治5
 海軍大輔となる。
 静岡より帰京、赤坂氷川町4丁目に居す。
1873 明治6
 島津久光慰撫のため、鹿児島へ派遣の命を受ける。
 参議兼海軍卿となる。
1875 明治8
 4月25日元老院議官に任命されるが、直ちに次表提出(11月28日に承認)。
1879 明治12
 木下川浄光寺境内に西郷隆盛類等の碑を建立。
1883 明治16
 吉井友・税所篤らと 西郷隆盛の名誉回復運動始める。
1884 明治17
 遺児寅太郎の参内で西郷隆盛の名誉回復。
1887 明治20
 伯爵となり、華族に列す。
 「吹塵録」35冊、「吹塵余録」9冊編纂成る。
1888 明治21
 枢密顧問官となる。
 「海軍歴史」25巻編纂成る。
1889 明治22
 「陸軍歴史」30巻編纂成る。
1890 明治23
 貴族院の伯爵議員に互選されたが辞退。
1891 明治24
 「開国起源」成る。
1892 明治25
 長男小鹿病死(41歳)。2月徳川慶喜の十男精を養子にすることを内定。
1895 明治28
 朝鮮処分等につき意見書を起草。
1898 明治31
 徳川慶喜参内して天皇・皇后に拝謁し、名誉回復。
 慶喜、海舟宅を訪れ名誉回復の謝意を表す。
1899 明治32
 自邸で死去(発喪は21日)。
 青山墓地で葬儀。洗足池畔に葬る。
(江戸東京博物館『没後100年勝海舟展』を参照)
 平成15年(2003)7月21日  墨田区教育委員会


所在地  墨田区吾妻橋3-4江東橋1-8・緑4-22

 墨田区立 大横川親水公園
 施設の概要
この公園は、大横川の一部を埋め立ててできた親水公園です。
公園の大きさは、幅30~40m、長さ1.85km、面積約63,000㎡で、墨田区の中心を流れる北十間川との合流地点から、墨田区の南側を流れる堅川との合流地点までの区間となっており、平成5年(1993年)4月1日に開園しました。
園内は北から5つのゾーンに区分され、それぞれ色彩豊かな花の広場と釣堀(釣川原ゾーン)、子供たちがじゃぶじゃぶと遊べる水路(河童川原ゾーン)、緑豊かな渓谷と多様な生き物が生息するビオトープ(花紅葉ゾーン)、開放感のあるイベント広場(パレットプラザゾーン)、様々なスポーツが楽しめる広場(ブルーテラスゾーン)の特徴を持っており、公園利用者へ貴重な憩いの空間を提供しています。
 歴史と沿革
大横川の歴史は、明暦3年(1657年)の江戸最大の火災といわれる大火から始まりました。
江戸幕府は、復興の際、火除地等の確保のため、家屋の転移を図り、河川を掘り開き橋を架け、土地の整備を行いました。このとき掘られた河川の一つが大横川で、本所地域を南北に貫通しており、近年まで舟運、材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきました。しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によって、かつての機能は失われ、昭和56年(1981年)から大横川の埋め立てが進められました。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、平成5年(1993)に完成しました。
横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。その後、昭和40年(1965年)施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼ばれるようになりました。

ホームページ⇒http://www.city.sumida.lg.jp/matizukuri/park/kunai_park_annai/sumida_park/park60.html







大横川を整備した総延長1,800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに人工のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある施設が設けられています。
Oyokogawa-shinsui-koen Park is a water park with the well-maintained Oyokogawa River  of a total length of 1,800 meters.The pak connects Kinshicho,Oshiage,and Narihira.Within each area divided by a bridge or other  borders,you will find unique facilities such as an artificial brook,a fishing hole,and an open space.


大横川親水公園内には『清平橋跡』、『長崎橋跡』があります。








所在地 墨田区吾妻橋2-2-10

日蓮正宗
 妙縁寺





 妙縁寺には『』があります。






所在地 墨田区吾妻橋2-2-10 (妙縁寺)

 「夜寉井銘」の碑やかくいめいのひ
 『御府内寺社備考』や『葛西志』にも記されていたのが、ここ妙縁寺にあった「夜寉井」の井戸です。いつ掘られたのかはわかりませんが、人々から愛され、そのそばにこの石碑が建てられました。
 宝暦2年(1752)、儒学者井上蘭台が中国の『詩経』から多分に引用しながら詩を作り、書家滕包貫が宝暦12年(1762)に建碑しました。
 銘井寉夜
風雨如晦爰喪幼孫耿不寝念彼九原嗟茲胎禽馨聞干野薄言求之寒泉之下迨其今兮清冽且深自詒伊戚實労戒心寶暦二季六月蘭臺井上通凞撰
 
詩の意味を簡単に説明すれば、
「風雨が闇のような中で、鶴は我が子を失い、気になって眠れずにあの世を思い浮かべている。と、この泉で囁くような声を聞いた。今もこの木は清らかで、鶴同様に自らの憂いを残すように、心を和ませてくれる。」
というものです。(他にもいくつかの解釈があります)
 井戸は安政大地震でふさがりましたが、安政6年(1859)に日蓮正宗第五十一世日英上人によって再興されました。しかし、関東大震災によって再びふさがりました。
 飲料水に乏しく、水に苦労してきた本所地域において、貴重な歴史資料といえるでしょう。
 平成14年(2002)3月 墨田区教育委員会







所在地 墨田区吾妻橋3-6

 南蔵院跡(しばられ地蔵と業平伝説)
 この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありました。しばられ地蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。
 ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしまいます。商いの疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、手がかりがまるでありません。そこで町奉行大岡越前守は一計を安じ、このお地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所に運びました。その上、お白州で地蔵の裁きをする旨のお触れまで出したのです。このうわさはたちまち広まり、お裁き当日の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となりました。越前守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納めさせました。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。越前守は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
 この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻ってくるとか、泥棒よけのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵と呼ばれ、人々の信仰を集めるようになりました。
 一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・在原業平をまつったものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡ったときに「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠みました(『伊勢物語』)。現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残してのは、このことに由来しています。
 南蔵院は、昭和元年(1925)に葛飾区水元に移転しましたが。現在でもしばられ地蔵の信仰と風習で知られています。
 平成21年(2009)3月 墨田区教育委員会


忍者ブログ [PR]
カウンター
現在の閲覧者数
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
歴史を未来に伝える。
HP:
性別:
男性