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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区両国3-13-9  (本所松坂町公園)

  吉良邸跡



 なまこ壁に囲まれた東京都指定史跡「吉良邸跡」があります。元禄15年(1702)12月14日、赤穂四十七士が討入ったところで、「忠臣蔵」で知られるところです。
 現在、吉良邸跡は墨田区の本所松坂町公園として保存されています。昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年(1934)3月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、昭和25年(1950)9月に墨田区に移管されました。
 毎年12月14日、義士討入りの日には、両国連合町会主催の「義士祭」、12月の第2または第3土曜日・日曜日には両国3丁目松坂睦主催の「吉良祭」や地元諸問屋出展の「元禄市」が開催され、大変な賑わいを見せます。



 吉良上野介義央(よしひさ)の屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は約2千550坪(約8400平方メートル)だったとされています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。
 吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本ところ二ツ目に新邸を与えています。討入りは翌元禄15年(1702)12月14日ですから、1年半に満たない居住でした。
 園内には、吉良上野介の首を洗った井戸を再現したり、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。


  吉良上野介追慕碑


  首洗い井戸

    本所松坂町公園由来
 この公園は「忠臣蔵」で広く知られる赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
 その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち約8400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
 昭和9年(1934)3月地元町会の有志が、遺跡を構成に伝えようと、旧邸跡の一角を購入し史跡公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年(1950)9月墨田区に移管されました。
 周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、周囲には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
                         墨田区


  吉良家家臣二十士碑

  吉良家家臣二十士

小林平八郎           小堺源次郎
清水一学             大河内六郎右衛門
新貝弥七郎           鳥井利右衛門
斎藤清左衛門         須藤与一右衛門
牧野春斎            鈴木元右衛門
森半右衛門           笠原長太郎
 権十郎            榊原平右衛門
 曽右衛門           鈴木松竹
大須賀次部右衛門  杉山三左衛門
左右田源八郎         清水団右衛門

元禄15年(1702)12月15日未明旧赤穂藩士が吉良上野介邸を襲撃した際吉良家の犠牲となられた家臣の俗名です
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所在地 墨田区両国3-13-9 (本所松坂町公園)

    松坂稲荷大明神由来
 『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年(1702)の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年(1935)に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。
             墨田区文化観光協会





所在地 墨田区両国3-6-7

    吉良邸跡
 この辺りに吉良邸正門がありました。
 元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、大石内蔵助以下23名が用意の梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
 赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて、大声を上げながら、百人以上の大勢で討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水富士左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し出口を固めたたため、飛び出すことも出来なかったといわれています。
              ぶらり両国街かど展実行委員会



所在地 墨田区両国3-5-7

    本因坊屋敷跡
 ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で名棋手を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来しています。
 もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・秀策などの棋手を生んでいます。
 現在は、実力制で
争われるタイトルの1つとして名が残っています。
            ぶらり両国街かど展実行委員会


所在地 墨田区両国3-19

 本所松坂町城趾

碑ヲ中心トスル一帯ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ
然ルニ大正大震災後ノ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日
町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ
永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之ヲ勤ス

 昭和七年六月當町建之


所在地 墨田区両国3-14-6



    鏡師中島伊勢住居跡

 中島伊勢の住居は、赤穂事件(忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
 北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も北斎は中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。
 飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この噂は、北斎自身が広めたようす。

  ぶらろ両国街かど展実行委員会


所在地 墨田区両国1-10-2

   もヽんじゃ
 享保3年(1718)創業の猪料理店で、正式な店名は「もヽんじやの豊田屋」です。290年に渡って伝統の江戸の味を守ってきました。「もヽんじ」とは『百獣』のことで、四つ足の動物の肉を扱うことが屋号の由来です。もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。
 昔から猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも、「山くじら」と称して食べられていました。
 猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼きにします。その他、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。
             ぶらり両国街かど展実行委員会






所在地 墨田区両国2-8-10
    
      回向院
 明暦3年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで4代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、災難事故による溺死者、遊女、水子、死刑者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
                ぶらり両国街かど展実行委員会



 明暦3年(1657)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立される。

 本尊  阿弥陀如来

安政大地震(1855)の死者2万5千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛、天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正12年(1923)の関東大地震の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています

江戸時代の雰囲気を伝える史跡記念碑墓地がある

 明暦3年(1657) 大火石塔
 安政2年(1855) 大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚(寛政5年〔1793〕) 松平定信建立
 猫に小判の話  猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出  定火消墓  木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩瀬京傳墓  岩瀬京山墓  加藤千陰墓


  第二次世界大戦前の回向院


  万霊供養塚





 回向院には『鼠小僧供養墓』、『加藤千陰墓』、『岩瀬京伝墓』、『岩瀬京山墓』、『国技館(大鉄傘)跡』、『旧国技館跡』、『相撲関係石碑群(力塚)』、『石造明暦大火 横死者等供養等』があります。


  
木遣塚


    Eko-in Temple
This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism(Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of Edoperiod folk hero Nezumi Kozo.


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

   相撲関係石碑群〈力塚〉
 墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
 天保4年(1833)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。 
 明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年
(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
 力塚は、昭和11年(1936)に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
 現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の街として両国の姿を象徴しています。
  平成11年(1999)3月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

 鼠小僧供養塔
「墨田区民俗文化財指定」(平成14年5月29日)
  墓石の高さ100cm 幅710cm 奥行き55cm
  台石の高さ35cm  幅116cm 奥行き78cm
  石組の墓壇の高さ65cm 幅150cm 奥行き130cm
  を測る(安山岩製)
碑の正面には「天保2年(1831)8月18日」
「俗名中村次郎吉之墓」「教覚速善居士」「道一書」
裏面には「大正15年(1926)12月15日建立」
左側には「永代法養料金五拾園也 細川仁三」と刻まれている



 鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832)8月19日に浅草で処刑されている
 「甲子夜話」によれば 武家屋敷にのみ押し入ったため 庶民からは義賊扱いされていると記されている 後に幕末の戯作者 河竹 黙阿弥が 権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき演劇界においては 現在まで続く当り狂言の一つとなった
明治12年(1879)1月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である 市川 団升が 狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており 施主として刻まれ 墓の横にも石灯籠を寄進している
細川 仁三とは市川 団升のことであるとみる説もある
文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と3度題材に取り上げるなどとしており 虚構の鼠小僧の人気は高い
江戸時代 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた しかし歌舞伎や狂言での成功によって 祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる

※他方 供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが別名「欠き石」とも呼ばれるものである
鼠小僧の墓石を欠き 財布や袂に入れておけば 金回りが良くなる あるいは持病が治るとも言われ 成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け 現在までに数百基にも及んでいるという
発生時期は不明であるが 明治18年(1885)に初演された 河竹木阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中で この信仰の事が触れられている
 
「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり ここには また庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」
                        (墨田区史より)

 


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

    旧国技館跡
 旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興行が始まったことから、明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円(現在の価値では75億円程度)です。
 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。
 東京大空襲まで、三度の焼失があり、戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂などとして利用されていました。昭和58年(1983)に解体されました。
 左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
   ぶらり両国街かど展実行委員会


                    旧両国国技館(昭和10年代)


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

   国技館(大鉄傘)跡
 相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある、「回向院相撲記」には、天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。
 国技館は、この回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。
 相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58年(1983)に解体されました。そして昭和60年(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北川の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。
 大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。  
 平成20年(2008)3月 墨田区教育委員会


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

東京都指定旧跡
 加藤千蔭
     昭和18年(1943)5月指定

 江戸中期の国学者、歌人。芳宜園と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などとも号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だという。父は江戸の与力として波長暴利に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明8年(1788)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に入っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本と呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びとは争ってこれを求めたという。文化5年(1808)9月2日歿。年七十五。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。
  昭和62年(1987)3月20日 東京都教育委員会


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

東京都指定旧跡
 岩瀬京山墓
     
昭和18年(1943)5月指定

 江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して、兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して凉山と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政5年(1858)9月24日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。
 なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。方半居士、覧山の列号がある。
 昭和62年(1987)3月20日 東京都教育委員会


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

東京都指定旧跡
 岩瀬京伝墓
     昭和18年(1943)5月指定

 江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の撫で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政3年(1791)風俗を乱すものとして手鎖50日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。著書には「仕懸文庫」「孔子縞干時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化13年(1816)9月7日歿。年五十七。
 昭和62年(1987)3月20日 東京都教育委員会


所在地 墨田区両国2-8-10 (回向院)

東京都指定有形文化財(歴史資料)
 石造明暦大火横死者等供養塔 1基
     昭和45年(1970)8月3日指定

 明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。
 もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。
 総高3.0メートル、延宝3年(1657)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存。
 昭和62年(1987)3月20日 東京都教育委員会


所在地 墨田区両国3-15-4

    時津風部屋(時津風一門) 
 師匠は、16代・時津風正博(元前頭・時津海)。
 昭和17(1942)年、当時現役であった第35代横綱・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在の時津風部屋創設につながっています。
 幕内最高優勝12回(内、全勝8回)、いまだに破られない歴代最高記録の69連勝など、輝かしい聖跡を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和20(1945)年11月場所後に引退、12代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。双葉山道場の看板は、現在も掲げられています。
 12代・時津風は、昭和43(1968)年12月16日、満56歳で死去するまでの間、約11年間にわたり、第3代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱(鏡里・・・13代・時津風)、三大関(大内山、北葉山、豊山・・・14代・時津風。第8代相撲協会理事長)をはじめ、多くの力士を育成しました。
          ぶらり両国街かど展実行委員会


所在地 墨田区両国3-5-3

   大島部屋(立浪一門)
 師匠は、2代・大島武雄(元大関・旭國斗雄)。
 技能賞6回、敢闘賞1回の受賞暦が示すように技能派力士として名高い大関・旭國が、昭和54(1979)年9月場所中に引退、年寄・大島を襲名し、昭和55(1980)年3月、所属していた立浪部屋から分家独立して創設しました。
 昭和55年(1980)3月場所に新弟子10人でスタートしましたが、第63代横綱・旭富士(現・伊勢が濱部屋師匠)をはじめ、小結・旭道山、旭豊(現・立浪師匠)、旭鷲山、幕内・旭豪山、旭里(現・中川師匠)、現役では、関脇・旭天鵬、十両・旭南海ら多くの関取(幕内8人中5人が三役に昇進)を2代で育てあげ、立浪一門の中核的存在をなしています。
 平成4(1992)年、相撲界に初めてモンゴルから6人の力士を入門させ、日本とモンゴルを結ぶ架け橋になっています。旭鷲山は平成18(2006)年11月場所で引退。現在、モンゴル人民共和国国家大会議(国会)議員を務めています。大島部屋は、衆議院議員を務めた旭道山と合わせて二人の国会議員を輩出しています。
          ぶらり両国街かど展実行委員会


所在地 墨田区横網2-3-25

 大正12年(1923)9月1日、突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、5万8千余人の市民は、業火の犠牲となった。
 このうち最も惨禍をきわめたのは、当時横網町公園として工事中の陸軍被服廠跡であった。世論は、再びかかる惨禍のないことを祈念し、慰霊記念堂を建設することになり、官民協力して、広く浄財を募り、伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和5年(1930)9月この堂を竣工し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、また公共慰霊の道場として設計された。三重塔は高さ135尺(約41メートル)、基部は納骨堂として5万8千余人の霊を奉祀し約200坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名法等が祭られてある。



 以来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し、「備えよつねに」と、相戒めたのであったが、はからずも、昭和19年(1944)、昭和20年(1945)、東京は、空前の空襲により連日爆撃を受け数100万の家屋財宝は焼失し、10万をこえる人々は、その犠牲となり大正震災に幾倍する惨状に再び見まわれた。
 惨禍の最もはげしかったのは昭和20年(1945)3月10日であった。高等方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約7万7千人余人を失った。当時殉難者は公園その他130ヶ所に仮埋葬されたが昭和23年(1948)より逐次改葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安氏、昭和26年(1951)春、戦災者整葬事業を完了したので、東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約6000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多く人々を救った日本風林泉を記念した庭園、及び大火にも耐え甦生したいちょうの木を称えた大並木が特に植えられている。
 東京都

三重塔



所在地 墨田区横網2-3-25 (横網町公園)

 この記念像は、大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方に発生した大地震により不幸にして災害に遭い死亡した小学校児童約5千人の死を悼み、この不遇の霊を慰めかつ、弔わしむることと、永く当時を追憶し、その冥福を祈るため、当時の学校長等が中心となり、弔魂碑建立を企画し、第5回忌辰に際しこれを発表した。それに共鳴する者が、18万2千27名に及び、その醵金は、1万4千66円47銭にも達した。                
 その基金で、彫刻家小倉右一郎氏に制作を委託し、完成後当時の財団法人東京震災記念事業協会に寄付し、その後東京都に引継がれたものである。
 なお、この悲しみの群像は、昭和19年(1944)第2次世界大戦たけなわのころ、戦力増強の一助として、金属回収の禍いを受け撤去され、台座だけがむなしく残されていたが、昭和36年(1961)に当初の作者、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して、再建されたものである。
 東京都



所在地 墨田区横網2-3-25 (横網町公園)

  幽冥鐘の由来
 この弔霊鐘は、関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国仏教徒の寄贈によるものである。
 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促した。
 また、各方面の回向が終わったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言した。
 その後災情が日を経るに従い甚大であることが明らかになったので仏教普済日災会の代表2名が来日し、京浜両地区の慰問を行ない、これと同時に我が国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し出たものである。
 その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横網町公園に安置することになった。
 なお、このことについては上海の王一亭氏の特段の尽力があった。
 東京都



所在地 墨田区横網2-3-25 (横網町公園)

大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。
当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたものである。

東京都


The Great Earthquake which occurred in the Kanto region on September 1,1923,brought unprecedented damage mostly to the cities of Tokyo and Yokohama as well as other places.Especially in congested down town (Shita-machi)housing areas,the Sumida rever was buried with many corpses.  co bcorpses.    
The Yokoami Open  Gallery was constructed in the hope that such a desaster should never be repeated and to make future generations aware of this tragedy by displaying fragments and remains of the damage.


  復興記念館案内
 本館は、東京震災事業協会が、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災の惨事を永く後世に伝え、官民協力して首都東京を前にも増して、復興させた当時の大事業を、永久に記念するため、震災記念堂(現慰霊堂)の附帯施設として建設されたもので、二階建総面積一、176.9平方米で昭和5年(1930)9月に起工し、昭和6年(1931)4月竣工、同昭和6年(1931)8月末日東京市に寄贈されたものである。
 館内には遭難者の遺品、被害品及び絵画、写真等をはじめ、復興事業に関する諸資料を保存展示するとともに、あらたに戦災関係と、一部宮城県沖地震の資料を加えて陳列し、広く一般に災害予防に関する知識を普及するために開館されている。

所在地 墨田区横網2-3-25 (横網町公園)

丸善ビルの鉄柱溶塊
大正12年(1923)9月1日の関東大震災の時に猛火と熱風にて溶解した

印刷機
当時、神田区(現在の千代田区)美土代町にあった三秀社印刷工場内で、火災により焼損した印刷機である。

花崗岩
日本銀行の建築材として使用されていた花崗岩の残がい。震災の猛威は頑強な建築物をも破壊してしまったのである。

魚形水雷
東京高等商船学校(現東京商船大学)内で焼損した魚形水雷(魚雷)の残がいである。

自動車の焼骸
自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は、車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。

大鉄管


鳥居の柱


釘の溶塊
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で、樽に入った釘が震災の猛火による高熱のため、大熔塊となったものである。

鉄筋コンクリート柱


鉄柱の溶塊
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内の鉄柱が、猛火により溶解し、かたまりとなってしまったものである。

天水桶


百馬力電動機
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。

洋釘の焼塊
深川区清澄町倉庫に貯蔵してあった樽入りの釘が、火災による高熱のため溶解し、ひとつのかたまりとなったものである。


所在地 墨田区横網1-12

   沿革
 この地は元禄4年(1701)、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は、宗資が築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどり、隅田川の水引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻式庭園である。



 明治になって旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年(1891)安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、家屋及び庭園は大正11年(1922)、東京市に寄付された。



 大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事を行い、旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名した。昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として初めて一般に公開された。



 昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に名園といわれた往時の姿に復元した。



 平成8年(1996)、明治時代の代表的な庭園として、東京都の「名勝」に指定された。その後、施設の老朽化が著しくなったので、貴重な文化財庭園を後世に残すため、墨田区では平成17年(2005)に「旧安田庭園整備保存管理計画」を策定した。この計画に基づき、貴重な文化財である旧安田庭園を保護し、さらなる活用に努めている。




  THE HISTORY OF OLD YASUDA GARDEN
 In 1701(Genroku 4th),a feudai lord in later  Hitachi-Kasama clan,Honjyo inabanokami Munesuke received this land from the Bakufu and said to have constructed this garden.
 This garden is with a pond in the shape of the Japanese character "Kokoro"(heart)at its center location,using the system by which the water level in the pond fed from Sumida River,rises and falls with the edd flow of the river's ttide,what is called Sioiri-Chisen-Kaiyu-siki-teien(garden with a pond carrying water from the Sumida River).In the era of Meiji Restoration ,this has become a house of the lord Ikeda Akimasa of late Bizen-Okayama Clan ,and then,in Meiji 24th(1891),it became the property of Yasuda Zenjiro,founder of the Yasuda financial group.After Zenjiro's death ,as specified in his will,the garden and house were donated to Tokyo City in Taisho 11th (1922) .However ,in September  of the next year,Taisho 12th (1923)the grounds were almost  completely destroyed in the Great Kanto Earthquake.The City began re-construction work on the garden,using as a base "ishigmi"stone formations which fortunately remained and then it has been named after the donator of Yasuda to be "THe Old Yasuda Garden".IN Showa 2nd (1927),it was first  opened to the public as the Japanese Style Garden,donated by the private charitable person.
 Taking the chance of its jurisdiction transfer from Tokyo Metropolitan Goverment to Sumida Ward in Showa 42nd(1967),it was fully re-constructed on a whole scale,and in Showa 46(1971),it has been completely restored to the original condetion of former times when it was called as a distinguished garden.In Heisei 8th (1996),this garden was appointed to be the Noted Place  of Tokyo as the typical garden of Meiji era.
 And as time passed,since its facilities habe become quite old,Sumida Ward made up a plan for Old Yasuda Garden Restoration&Management to leave such precious cultural properties for the future generations in Heisei 17th(2005).
 Based on this plan,we have been making effort to protect and keep such an important property of Old Yasuda Garden for further operation.



 旧安田庭園内には『水門跡』があります。


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