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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区千歳1~両国

 一之橋
 幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
 万治2年(1659)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
 堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。











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所在地 墨田区千歳2-4-7

浄土宗
 東日山 正明院 西光寺
 旧両国橋が架かる半世紀以上も前の慶長11年(1606)、当時は下総国葛飾郡海辺新地と呼ばれたこの地で、土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上寺の信誉英松和尚を迎え当寺を創建しました。
 浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど、地域の教育にも貢献しましたが、震災、戦災など度重なる災害に遭遇し、貴重な資料もすべて焼失してしまいました。
 明治時代後半に第16世住職となった渡辺海旭和尚は、「大正新脩大蔵経」(全百巻)を監修発行すると共に、深川に労働共済会館を設立し、日本の近代社会事業の先駆者として知られています。
 現在の本堂は平成7年(1995)に再建されました。
 墨田区


  西光寺には『渡辺海旭上人句碑』があります。


所在地 墨田区千歳2-4-7 (西光寺)

 渡辺海旭上人句碑
壷月とは當山第十六世渡辺海旭上人(1872~1933)の号。
ドイツにて10年間の留学中、哲学博士の学位を取得、帰国後は芝学園校長社会福祉事業の実践、大蔵経の編纂、国際協力等大乗仏教の精神に則り広く社会に貢献した。
また多くの優れた門弟を養成し、当代屈指の名僧と慕われた。
北鴎は芝学園出身で慶応義塾大学當寺に3年寄食し、直接薫陶を受けた。
 西光寺第十八世明誉記











所在地 墨田区千歳1-8-2

 江島杉山神社
 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄屋敷の跡です。
 杉山和一は慶長10年(1610)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。
 厳しい修行の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文10年(1670)、検校に任じられました。
 さらに5代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄6年(1693)6月のことでした。
 一町四方(約1万2千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
平成18年(2006)8月 墨田区教育委員会











                                 杉多稲荷神社
    

 江島杉山神社には『岩窟』、『杉山検校頌徳碑』、『八橋城秀検校の碑』、『即明庵由来碑』、『宝井其角「ほととぎす~」句碑』、『いわやみち碑』があります。


所在地 墨田区千歳1-8-2 (江島杉山神社)

 岩窟
 宇賀御魂神(倉稲魂命)は弁才天である
この功徳は五穀豊穣ばかりでなく如意宝珠の力によって希うことはことごとく叶い又福を得ることとなり、あわせて弁才天本来の能力である音楽・学問・除災までの力を授けてくださるとい、即ち人の希いとしての万能の神として認めたのであるから広く信仰さえたのは当然である。又、宇賀御魂神は、梵語のウガヤでありウガヤは白蛇を意味するから弁才天が蛇に縁があるのと共通し、弁才天を龍女とみる説からも蛇と表現される。 
又頭蛇等は■■に宇賀神を表す。
右、多紀理■売命
中、市寸嶋比売命
左、多岐都比売命
弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神と習合してからのようである。本来宇宙神ではなく水と土地の神という観念が強いから民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福学問・音楽・弁舌等に霊験あり、又土地の鎮座とし地主神として祀られている。


















所在地 墨田区千歳1-8-2 (江島杉山神社)

 杉山検校頌徳碑
大正13年(1924)東宮御成婚に際し正五位追贈の事あり此碑を営んだが、先般の戦火に損壊したので今次昭和丗四年会の創立丗週年に当り之を復旧した亦皇太子御成婚の佳歳である
 財団法人杉山検校遺徳顕彰会 
 

 功労者並向学寄附者
太田晴之 戸田恵 姥山薫 三木常正 笠井格蔵 林春吉 大野加久二
伊藤福七 國井はや 福岡政司 浜田誠一 柿沼政雄 古川真次 
白井峯吉 福原喜八郎 井上皓一■ 高木喜太郎 山本菊次 前田豊吉
肥後基一 福岡渡邊喜十郎 大竹マツ 大阪金戸島太 藤原繁松
小守良勝 大分県盲人会 日本橋鍼灸按師会 尾崎新治 以
下百戴拾餘名












所在地 墨田区千歳1-8-2 (江島杉山神社)

 即明庵由来碑
管鍼術之祖杉山和一師深く江之島弁財天を信じ将軍綱吉之侍■に■り元禄6年(1693)当所に町屋敷二千七百坪を賜ふ乃ち社地九百八拾九坪に弁財天社を経つ検校の没後直に門弟恩師之霊牌所として即明庵を社側に建つ残余の千七百余坪即ち杉山屋敷なり後惣録後役所鍼治稽古所を此処に移す明治以後十歳町と呼称す明治維新の際盲官廃止弁財天社地以外没収され神佛分離の際之を江島神社と称す明治7年(1874)7月村社に列す明治23年(1890)当流同門の徒温知舎を興し明治4年(1871)廃絶せり杉山報山検校の霊牌所即明庵を再興杉山神社と称す明治35年(1902)5月杉山報恩講を興し祭典法要を営むも関東大震災に遇ひ烏有に帰す大正15年(1926)9月18日拝敞奥殿合計八坪五合の杉山神社再建す昭和5年(1930)9月26日許可財団法人杉山検校遺徳顕彰会を設立杉山報恩講の事業の継承をす昭和20年(1945)戦禍の為盡く灰燼に帰するに依は関係者と謀り杉山神社奉祀の検校の霊牌を本社に合祀昭和27年(1952 )9月江島杉山神社と改称し再興なる昭和34年(1959)財団設立30周年に当り■勒寺乃在墓碑の移築新修並に当所検校の頌徳碑の復旧完成す昭和39年(1964)11月安永5年(1776)建設の岩屋破損に就き関係者と協力之が修復を終る此に於て一應復旧するも唯即明庵(杉山神社)跡後世に所在の不明を■れ此処に石碑を建て明記し尚其の再建を期す者矣
 昭和40年(1965)5月18日建之
 財団法人杉山検校遺徳顕彰会


所在地 墨田区千歳2-1-16

臨済宗妙心寺派
 東光山 要津寺

 要津寺には『雪中庵関係石碑群』、『中野撝謙墓』、『牧野家墓所』があります。


所在地 墨田区千歳2-1-16 (要津寺)

 雪中庵関係石碑群
 雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島嶺蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより、当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には、蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養墓や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。
 平成10年(1998)3月 墨田区教育委員会

 雪中庵蓼太の句碑


 芭蕉翁俤塚




 芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」句碑
 


所在地 墨田区千歳2-1-16 (要津寺)

 中野撝謙墓
 要津寺は、下総関宿藩七万三千石の初代藩主牧野成貞(致仕号大夢)が、その下屋敷であったこの地に、元禄4年(1691)に再興した臨済宗妙心寺派の寺院である。
 中野撝謙は、寛文7年(1667)8月6日長崎生まれた。名は継善、字は完翁、善助と称し、撝謙は別号である。母は大原氏で、書家の林道栄の妻と姉妹であった。幼くして父を失い、母ととともに林道栄方に身を寄せていた。道栄は自ら撝謙を養い教育を授けたため、よく林氏の神童と称された。19歳で江戸に出て朱子学を学び、神田雉子町で私塾を開いた。元禄の頃、関宿藩の儒官となり、貞享5年(1688)以降将軍綱吉の藩邸御成りに際しては、経書の講義を仰せ付けられた。このため諸侯や貴人に従学するもの多く、安藤東野、太宰春台なども門人のひとりであった。享保5年(1720)7月23日54歳で死去し、牧野家の菩提寺である要津寺に葬られた。墓石は長男行充によって建立されたもので、「撝謙中野先生之墓」とあり、碑文は太宰春台の撰文によるものである。
 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会


所在地 墨田区千歳2-1-16 (要津寺)

 牧野家墓所
 牧野家墓所は、区内の数少ない大名墓の一つです。代々旗本として仕え、5代将軍徳川綱吉の時に成貞が側用人に取り立てられ、関宿藩主となりました。要津寺は、成貞が下屋敷の一部である現在地に再興、成貞寺としましたが、父成儀の戒名から、要津寺と改称しました。その後、牧野家の下屋敷は緑町に移転。維新後も末裔の貞寧は、本所小学校(昭和21年〔1946〕廃校)の学務委員を務め、地域社会の発展に貢献しました。
 墨田区教育委員会


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