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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区業平2-14-9

日蓮宗
 長養山 春慶寺

 春慶寺境内には『四世鶴屋南北の墓』、『岸井左馬之助寄宿之寺の碑』があります。


                                          普賢堂
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所在地 墨田区業平2-14-9 (春慶寺)

  四世鶴屋南北の墓
 南北は「大南北」と尊称された江戸時代の狂言作者です。宝暦5年(1755)に江戸日本橋の紺屋形付職人伊三郎の子として生まれ、幼名は勝次郎(または伊之助)でした。はじめは父とともに仕事をしていましたが、せいらいの芝居好きから安永5年(1776)、狂言作者初代桜田治助の門に入りました。翌安永6年(1777)には、中村座の「将門冠初雪」という作品に桜田兵蔵の名で作者の一人として初めてその名を連ねました。
 立作者(筆頭作者)となったのは、享和元年(1801)といわれていますが、出世作は文化元年(1804)河原崎座で上演の「天竺徳兵衛韓噺」です。尾上松助(後の松緑)扮する徳兵衛の水中早替りの妙技とあいまって、七十日余りにわたって大入り興行となりました。
 文化7年(1811)には四世鶴屋南北を襲名し「於染久松色読販」、「東海道四谷怪談」など庶民の生活を克明に、時には大胆に描いた傑作を次々と世に送り、人々から圧倒的な支持を得ました。文政12年(1829)11月27日、75歳で没しました。
 記録によると、墓石には正面に「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には墓誌名の記載もありましたが、震災・戦災による被災のためかなり損傷しました。
 昭和58年(1983)、劇作家宇野信夫の染筆を以て新しい墓石が作られました。
 平成20年(2008)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区業平2-14-9 (春慶寺)
  
 『鬼平犯科帳』中で岸井左馬之助(江守徹役)が春慶寺を寄宿の寺としていたことから、江守徹により碑が建てられる。


所在地 墨田区業平5-7-7 

日蓮宗
 柳嶋妙見山 玄和院 法性寺



 法性寺境内には『昔ばなし柳塚』、『葛飾北斎顕彰碑』、『風也坊秋香句碑』があります。

 


所在地 墨田区業平5-7-7 (法性寺)

  昔ばなし柳塚
 この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。
 江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治17年(1884)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。明治22年(1889)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。
 やがて大正6年(1917)になって、寄席が会社組織となり、300人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する150人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。
 平成13年(2001)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区業平3-2-5

  大雲寺跡(役者寺)
 この地は「役者寺」とも「赤門寺」とも呼ばれた浄土宗知恩院末の寺院跡です。本尊は運慶作の阿弥陀如来と伝えられています。
 元和6年(1620)に梵譽貞存が浅草森田町に創建しました。寛文8年(1668)に類焼したため、本所押上村に新しい土地を幕府から拝領しました。江戸幕府による市街地の拡張の一環として行われた最初の本所・深川の開拓に伴う移転だったと考えられます。
 歌舞伎の初代中村(猿若)勘三郎以後十三代、初代市村羽左衛門以後十六代、さらには四、五、六代松本幸四郎や初代、三、五、六代の尾上菊五郎ら多くの歌舞伎役者たちの菩提寺であることから「役者寺」とも呼ばれました。
 関東大震災を契機として、昭和6年(1931)、現在の江戸川区西瑞江2丁目に移転しました。
 平成10年(1998)、この大雲寺の範囲の一画であった墨田区職員住宅の建築に伴い、江戸時代の埋葬墓等の遺構が発見され、発掘調査が実施されました。
 平成20年(2008)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区業平1-7

 小梅銭座跡
 勝海舟編「吹塵録」に銭座請負人として、「小梅・野州屋・南部屋」の名が確認されます。しかし、その期間と鋳造額はわかっていません。また、銭座の位置は、業平橋から東方に税務署あたり言ったに及んでいたと伝えられています。
 その他、区内では押上・本所番場・・本所横川にも銭座が置かれていたと言われており、本所番場の下吹所では、天保銭が鋳造されていました。
 江戸時代には、一般に金貨・銀貨と銅・真鍮・鉄からなる銭貨との三種類の貨幣が流通していました。当時それぞれの鋳造所は、金座・銀座・銭里と称されていました。
 銭座は、寛永13年(1636)に芝と浅草橋場に設置されたのが最初です。その後、江東地域への鋳造所設置が多くなり、この小梅銭座は、元文元年(1736)寛永通宝の銅銭を鋳造したところで、銭貨の背面上部に「小」の文字が入ってます。
 平成2年(1990)3月 墨田区











所在地 墨田区業平2-13-13

 押上天祖神社
 押上天祖神社は、明治5年(1872)10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて、今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。
 当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は押島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。
 また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治5年(1872)村社に列する事となり、明治11年(1878)の記録には、武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭と云う文献が残っている。
 天祖神社は、呼名を旭神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺と云う寺が管理して居たのが明治初年(1868)に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天神社は其の末社と云う事になっている。
 又大正10年(1921)に大祭が行われ、大正12年(1923)の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は平川橋4丁目地域にあったのが、後、昭和3年(1928)の区画整理で、現在地(業平2の13の13)に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大地震で焼失後社殿も新築されたが、昭和20年(1945)3月10日の戦災で、又も焼失した。そして昭和27年(1952)度大祭の折、再び新築し、続いて昭和32年(1957)の大祭には鳥居が再建され、又生垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。昭和37年(1962)境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の六ヶ町の外に新たに旧業平橋1丁目と、旧向島押上町が加わり、八ヶ町の神社となっている。
 現在の大神輿は明治21年(1888)5月5日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で2回に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬかれたので大御輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。
 其の間、明治44年(1911)9月、大正10年(1921)5月と何回かの修理を行って居ります。(墨田区史より)
 平成10年(1998)7月吉日 押上天祖神社総代会











 押上天祖神社には『天祖神社鎮座六百年記念碑』があります。







所在地 墨田区業平2-13-13 (押上天祖神社)

 天祖神社鎮座六百年記念碑
 顧みれば本年は戦災を受けて十三年を迎えた。昭和20年(1945)3月9日夜半より10日未明の帝都空襲は實に大規模の爆撃であり、全都に多大の被害を與え、江東地帯は其の渦中にあって一夜にして全くの焼土と化し多数の犠牲者を出した。當社亦社殿及社務所は焼失、鳥居は破壊したが不思議にも神輿庫は大正12年(1923)9月1日の関東大震災で昭和20年(1945)の爆撃にも災を免れた。
 當時氏子の住居も全焼し生活も困難の極に在った。
 昭和20年(1945)8月15日戦争を迎え爾来十有余年、人々の努力により生活も豊かになり、人心も安定し、町は以前にも増して復興した。氏神の社を一日も早く復旧しようという氏子は茲に御神徳の廣大と今は再び帰らぬ殉難の方々の永遠の冥福を記念し此の記念碑建立の所以とする。
 昭和32年(1957)9月15日建之 建碑者一同  恩田眞宏書



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