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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区業平2-13-13

 押上天祖神社
 押上天祖神社は、明治5年(1872)10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて、今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。
 当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は押島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。
 また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治5年(1872)村社に列する事となり、明治11年(1878)の記録には、武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖神社、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭と云う文献が残っている。
 天祖神社は、呼名を旭神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺と云う寺が管理して居たのが明治初年(1868)に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天神社は其の末社と云う事になっている。
 又大正10年(1921)に大祭が行われ、大正12年(1923)の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は平川橋4丁目地域にあったのが、後、昭和3年(1928)の区画整理で、現在地(業平2の13の13)に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大地震で焼失後社殿も新築されたが、昭和20年(1945)3月10日の戦災で、又も焼失した。そして昭和27年(1952)度大祭の折、再び新築し、続いて昭和32年(1957)の大祭には鳥居が再建され、又生垣、塀、水屋等も出来、神社としての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。昭和37年(1962)境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の六ヶ町の外に新たに旧業平橋1丁目と、旧向島押上町が加わり、八ヶ町の神社となっている。
 現在の大神輿は明治21年(1888)5月5日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で2回に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬかれたので大御輿も当時のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。
 其の間、明治44年(1911)9月、大正10年(1921)5月と何回かの修理を行って居ります。(墨田区史より)
 平成10年(1998)7月吉日 押上天祖神社総代会











 押上天祖神社には『天祖神社鎮座六百年記念碑』があります。





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