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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区錦糸1・太平1~石原4・亀沢4 (大横川親水公園)

 清平橋跡
 大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により昭和4年(1929)に架けられました。
 かつては川の西側が清水町、東側が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文字ずつ取って清平橋と名づけられました。
 架橋時は長さ38.97mの鋼橋(3径間ゲルバー橋)でしたが、老朽化が進行したため、架橋から82年が経過した平成23年(2011)に、長さ10.00mのコンクリート橋(プレテンション方式PC単純床版橋)に架け替えました。
 架け替えを記念して、旧橋の橋名板と鋼材の一部を遺してその歩みを記します。
 平成24年(2012)3月




昭和32年(1957)当時の清平橋(墨田区立緑図書館所蔵)



架け替える前の清平橋
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所在地 墨田区錦糸1~亀沢4 (大横川親水公園)

 長崎橋跡
 ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、両名によって、墨田区亀沢4丁目より同錦糸1丁目に架けられました。
 最初は長さ10間(18.0m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年(1929)6月には、鋼橋(トラス)になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。
 なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名づけられ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。
 平成3年(1991)6月


所在地 墨田区錦糸1-6-12

 津軽稲荷神社
津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治43年(1910)の大水害と共に拂下られ太平町1丁目町会の所有となる昭和7年(1932)町名変更の際錦糸1丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民の信仰厚く大正12年(1923)関東大地震及昭和20年(1945)戦災の為焼失昭和35年(1960)拝殿及社務所会館再建落成致しました又弁財天は江之島弁財天の分神で鳥居は明治百年を記念して昭和44年(1969)再建されました町民一同之信仰の的とされて居ります尚津軽華子様常陸宮様との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたので神社内に保存してあります。
 昭和58年(1983) 明友会

 「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭や塩原」と言われた弘前藩津軽家の中屋敷の跡。明治時代、屋敷内に祀られてた屋敷神(稲荷)だけを残し、屋敷は撤収されました。
Inari,originally an agricultural deity of harvests,has come to be worshipped here as the guardian of the area.The shrine used to protect the residence of the Tsugaru samurai family of the Hirosaki domain before the  buildeng was taken over by the neighborhood association when the rest of the estate was disprersed during the Meiji period (before 1912).







 辨財天


 


所在地 墨田区錦糸4-15-1 (錦糸公園)

 千種稲荷神社
千種稲荷神社は江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが寛文から延宝の20年間(徳川4代将軍家綱の時代)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ更に其の後この地を武家の下屋敷の敷地として整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され加えて横十間川が当時船運の盛んな処であった関係で武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後徳川幕府は明治政府に替り明治2年(1869)大政官の布達により従来の武家制度は廃止され武家下屋敷も解体されて農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。
其の後政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設し其の敷地内に此の稲荷社があり陸軍省は、敷地整地に際しこの稲荷社を取払いし処、其の後倉庫並びに周囲に再三火災発生し陸軍省も面目問題として苦慮を重ね後になり敷地内より取払ったままになっていた稲荷社に気付き旧位置に再建して祀りし処、不思議にも其の後火災等全くなくなりました。大正12年(1923)の震災には此の地一帯は灰燼に化したが稲荷社には少しの被害も受けませんでした。昭和3年(1928)7月18日復興局の手により創設された錦糸公園も開園とあり同じ頃、神田より製菓業者が公園の周辺に集団移住し営業を開始せし処早々より町内に火災多発して町民は不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが昔より此の地に祀られて有った守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に町内有志により探し出し公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり又、商売繁盛、災厄消除当諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和20年(1945)3月10日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和29年(1954)千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ其の年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渡り工事を重ね境内の整備を完了した次第であります。昭和30年(1955)5月18日付を以って右建物一切を東京都の申し出により都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和40年(1965)4月から墨田区の公園となりました。
昭和50年(1975)千種講より春秋2回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
 (趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より) 















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