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東京都墨田区の歴史
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所在地 墨田区向島4-9-13 (秋葉神社)

墨田区登録文化財
  石燈籠



 本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の籠臣柳沢吉保の子です。
 この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠挙が宝永6年(1709)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦8年(1718)に奉献しました。
 鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(1704)に奉献したものです。なお、この一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。
 当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれ、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。
 平成5年(1993)3月 墨田区
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所在地 墨田区向島・台東区

  隅田公園
 隅田川の両岸、墨田区と台東区にまたがる臨水公園で、都内有数の桜の名所。

The Sumida City side of this riverside park,shich spans the Sumida-gawa River so that it is located in both Sumida City and Taitou City,is one of Tokyo's best-known locations for cherry blossom viewing.



  艇庫とレガッタ レガッタによる隅田川の賑わい
 レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。 
 1883年(明治16年)日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内のプール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、1967年(昭和42年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。
 近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。

  Regatta was the most popular sport among students in Meiji era and Taisyo era.The birthplace in Japan is Sumida River.
 After the first regatta race in Japan took place in Mukojima in 1883 (Meiji 16),it began to be played frequently among schools and companies.And Sumida River became the center of regatta race.Since a number River boathouses were built along the river,people called the place "Village of boathouse".(Many of those boathouses located between present Metropolitan Expressway route 6 Mukojima-on-ramp and Indoor Swimming Pool.) Once regatta race took place,a crowd of people gathered and filled the riverside.However,the last voathouse (Hitotsubashi-University's boathouse)  has moved out in 1967 (Showa 42) because of water pollution,boathouses no longer exist along the river since then.
 In recent years,regatta race in Sumida River revives as water is purified.Regatta is going to regain  the former life.



 隅田公園内には『野口雨情文学碑』、『墨堤植桜の碑』、『藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑』、『「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」の碑』、『隅田公園少年野球場』、『富田木歩終焉の地』、『竹屋の渡し跡』、『花の碑』、『明治天皇御製碑』、『秋桜子句碑』、『山の宿の渡し跡』があります。


所在地 墨田区向島5-1 (隅田公園)

   墨堤植桜の碑
 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が100本の桜を、享保11年(1726)には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原■塢きくう、朝川黙翁、中山ト■が150本、天保2年(1831)に阪田三七郎が200余株の桜を植えました。弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治20年(1887)に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年(1896)に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
 平成2年(1990)3月 墨田区


  墨堤植桜之碑と桜勧進  住民が育てた墨堤の桜
 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
 墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
 墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

 Bokutei estaablished a reputation as a good place of cherry blossom biewing in Edo era.Those cherry trees had planted only around Suijin shrine (current Sumidagawa shrine).From 1880s,volunteers in local village planted many cherry trees along the river to the South.
 A row of cherry trees in Bokutei was gradually extended to "Chomei-ji temple","Mimeguri shrine",and it reached "Makura Bridge" in about 1880.During the time,there was also a conation for planting cherry trees called "Sakura-Kanjin" promoted by those volunteers.
 It is curved on "Shokuou-no-Hi (momument)" that cherry trees in Bokutei were loved by local people.



所在地 墨田区向島5-1 (隅田公園)

  野口雨情文学碑

都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年(1933)、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
 東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。
 昭和63年(1988)10月9日 墨田区


所在地 墨田区向島5-5-21 (隅田公園)

  隅田公園少年野球場
 この少年野球場は、昭和24年(1949)戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
 以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。
 昭和61年(1986)3月 墨田区教育委員会

 


所在地 墨田区向島・東向島

 
向島の地名は江戸に入ってから、浅草側から隅田川をへだてて牛島・寺島などを総称してよんだもんである。
 向島の地域には、牛島神社、常泉寺、三囲神社弘福寺、長命寺、秋葉神社などの名所旧跡並びに文化遺産が多い。とりわけ江戸時代末の文化文政の頃から文人墨客の好むところとなり、寺社の境内にはさまざまなたたずまいの句碑・歌碑類があり、あわせて百を超える。
 向島百花園には、文化元年(1804)に町人佐原鞠塢が、武家屋敷の跡地に開いたものである。園内には多数の梅の木が植えられ、詩歌にゆかりの深い草木類が多い。園の名称は、梅は百花に先がけて咲くの意から百花園といわれた。


所在地 墨田区東向島1-7-11 

  露伴児童遊園
 ここは文豪幸田露伴が明治41年(1098)から大正13年(1924)まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治26年(1083)冬、この寺島町かいわいに来住しそれから約30年最も力の溢れた磁器をこの地にすごし、数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、旧道、相撲などしてよく庭で遊んだそうです。
 このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。
 昭和39年(1964)3月建立  墨田区



 園内には『幸田露伴文学碑』があります。


所在地 墨田区東向島1-7-11 (露伴児童遊園)

  幸田露伴文学碑

 世おのづから數といふもの有りや。
有りといへば有るが如く、
無しと為せば無きにも似たり。
洪水天に滔るも、禹の功これを治め、
大旱地を焦せども、湯の徳これを濟へば、

數有るが如くにして、而も數無きが如し。
   「運命」より


所在地 墨田区東向島3-2-1

  子育地蔵堂
 この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。



 この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。

 

 その後、天保3年(1832)4月に11代将軍徳川家斉が鷹狩りに来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
 御堂前の坂は、明治44年(1911)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。



 昭和8年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立100年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。
 平成23年(2011)8月 墨田区教育委員会

 


所在地 墨田区東向島3-23-17

  蓮花寺




 蓮華寺境内には『道標』があります。


                                                  地蔵堂


所在地 墨田区東向島3-23-17 (蓮花寺)

墨田区登録文化財
  道標 二基
     


 「女人済度御自筆 弘法大師」の道標
 左右側面に「大しみち(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。片方は蓮花寺で、もう片方の「大しみち」は西新井大師を指したと考えられます。文化15年(1818)の建立です。台石に「と組」と記されているので、江戸火消しが建てたのでしょう。

 「石除弘法大師」の道標
 右側側面に「西 白ひけ はしはみち(白鬚 橋場道)」とあります。文面から、門前に建てられていたものと考えられます。文政5年(1822)の建立です。

 ともに蓮花寺とはゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として、川崎、西新井の大師と並んで江戸三大師の1つとして、栄えていました。石除けの護符をいただきにくる大師参りの人々のために建てられた道標に違いありません。
 平成8年(1996)3月  墨田区教育委員会


所在地 墨田区東向島3丁目・堤通1丁目境

  旧墨堤の道
 隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~1673)。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿(現堤通2丁目、都立東白鬚公園辺り)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
 白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿をけしてしまった、旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。
 関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっています。
 平成21年(2009)3月  墨田区教育委員会




                      明治時代の墨堤の茶屋(緑図書館所蔵)


   明治時代の白鬚神社前の桜(緑図書館所蔵)



所在地 墨田区東向島4-28-16 (東武博物館)

  1720型デラックスロマンスカー
1720系は昭和35年(1960)に就役し、浅草~東武日光・鬼怒川方面へと走った特急電車です。当時の車両技術の粋を集めたオール電動車6両固定編成で、昭和48年(1973)までに7編成作られました。ジュークボックス付きのサロン室を備えるデラックス車両として長い間東武鉄道の看板特急でしたが、100系特急スペーシアにその女王の座をゆずる平成3年(1991)引退しました。
               東武博物館


所在地 墨田区東向島4-28-16 (東武博物館)

  日光軌道線203

日光軌道線は明治43年(1910)、日光精銅所の資材輸送を主目的に敷設されました。昭和22年(1947)に当社と合併しましたが、その後、観光客の増加にこたえ、開業以来使用していた旧形車を廃し、昭和28年(1953)・昭和29年(1954)に大形車を導入しました。この車両は昭和29年(1954)に汽車会社で造られた2車体3台車連接式の珍しい電車です。日光軌道線は、昭和43年(1968)に姿を消しました。
 全長:18,550mm
 幅  :2,200mm
 高さ :3,702mm
               東武博物館


所在地 墨田区向島2-5-17

 三囲神社

   由緒
1、東京市本所區向島2丁目7番地鎮座
1、村社 三囲神社
1、御祭神 宇迦能魂命
1、御祭日 例祭4月9日
三井総元方 三井銀行 三井物産株式会社 三井鉱山株式会社 株式会社三越
右総元方始め各株式会社交替に正五九の小祭を受持ち昔の例の儘に祭祀を執り行ふ



当社の草創は實に壹千餘年前の事にして共間廔々の變遷あり 元亀年間火災に罹り社殿を再建し慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南二丁の現地に移さる
霊験妙なるが中にも元禄6年(1693)6月の大旱魃の時俳聖晋其角献句雨乞によりて霊験立ちどころに顕れ翌日大雨あり之より御神徳天下に普く特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三囲大神の信仰厚く当家の守護神と仰ぎ享保元年(1716)三井高治三井高久三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧げ奉り又享保12年(1727)5月には従二位卜部潮臣■敬に請ひて更に霊璽を当社に遷七鎮め奉り田地を捧け社地を拡張し神殿瑞垣を改築せり
爾来三百餘年子孫代々祖先の志を継ぎ敬神以て今日に至る迄昔の随々に当社の維持経営に努め又三囲講を創設して祭祀に力を致す
境内末社多く中にも大國神恵比寿神は隅田川七福神の一つとして其名高く額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め又樹間に黙綴せる諸名家の碑石は其の数多く興趣掬すべし
 昭和17年(1942)1月25日

 

                         三囲神社本社(墨田区登録文化財)

Haiku poet Takarai KIkaku is said to have dedicated a reading of his poem hire as an offering during the Edo drought of 1693,triggering a great rain the following day.The shrine's precincts include a haiku-inscribed statue memorializing this event.The shrine is dedicated to Daikokuten (the god of wealth,farmers,agriculture,rice,and the kitchen) and Ebisu (the god of fishermen,good luck,and workingmen),two of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.


 三囲神社
境内には『三囲のライオン像』、『三角石鳥居』、『三囲神社最古の紀年銘』、『朱楽菅江辞世狂歌碑(執着の~)』、『隅田川七福神 三囲神社別殿(大國神 恵比寿神)』、『富田木歩の句碑(夢に見れば)』、『一菴小林先生之碑』、『石造神狐』、『秦蒙将軍之象の碑』、『其角惜春の句碑』、『野崎車応追悼碑』、『本松斎一得翁之碑』、『一勇齋歌川先生墓表の碑』、『二世本松齋一得君之碑』、『中山善吉の碑』、『菱湖先生の碑』、『日比翁助 石垣の歌碑』、『木遺音頭の碑』、『老翁老嫗の石像』、『宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)』があります。


 Mimeguri-jinja Shrine
 (Sumidagawa-shichifukujin)













所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  三囲のライオン像 
 三越の旧池袋店から移した三越のシンボルであるライオン像は、大正3年(1914)当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み、三越本店に一対のライオン像を据えたのにはじまる。戦後、本店の像をもとに各視点に設置されているライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむらいおんである。なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は、大いに発展し明治29年(1896)三越呉服店につながる。


 

 写真は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壷の台石に彫られた。明治29年(1896)から昭和の初期まで実際につかわれていた。


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  三囲神社最古の紀年銘
 藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永3年(1707)に奉納した当神社で最も古い年代を示す石造物


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

隅田七福神 大國神 恵比寿神

 三囲神社の別殿には、古くから大國、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人びとによって師事された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。
 大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大國を同じ音の大黒とも書く。

 


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  三角石鳥居
 三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある。


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  朱楽菅江あけらかんこう辞世狂歌碑

 執着の心や裟婆に残るらむ 
   よしのの桜さらしなの月    朱楽管江

建立の年代は書かれていないが文化文政の頃にはすでに有名な石碑であった


所在地 墨田区向島2-5-17 (三囲神社)

  宗因白露の句碑
 「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化9年(1812)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。
 宗因は慶長10年(1605)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師、俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙酒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。
 平成18年(2006)12月 墨田区教育委員会


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